前夜
(ここは……?)
脈絡もなく現れる光景。昨日見た夢の感覚とは違う。即座に現実ではないと分かる。
記憶が、抑えられていた蓋を押しのけ、頭の中へと溢れ出してくる感覚。自分のものではないはずの景色が、音が、匂いが、濁流のように流れ込んでくる。
(これは……何……? 頭が……割れる……!!)
膨大な記憶の質量に、押しつぶされる。
◆
──悲鳴の雨
空が、泣いているようだった。降り注ぐのは雨ではなく、人々の叫び。逃げ惑う足音と、崩れ落ちる石の音が、どこまでも重なり合っていく。
『──……にはシャ……加護……か!?』
『神は……も……ない……』
『……おしまいだ』
◆
──破滅の結末
人々の燃え尽きる感情、朽ちていく躰。東の空に朝日が昇るのと同時に、西の空は夜に呑まれていく。朝と夜が、同時に訪れていた。
まるで「世界の前提」そのものが書き換えられたかのような光景。
「目覚めると君はどこにもいない」
誰の声なのか分からない。1人だけの記憶ではないような、自分と他人との境界が曖昧になっていくような感覚。
断片的に明滅する記憶。
◆
──拒絶の果て
焼け落ちた世界の中心に、宵闇を幾重にも織り込んだドレスを身にまとう存在が佇んでいた。全能者というべきか。言葉にするより先に、確かに私はその存在を感じた。
視線が落ちる。その足元にあるものを見て、私ははっと息を呑んだ。
「──っ!」
最後に、声が聞こえたような気がする。
「次に巡り合うときは……君を……君を………た」
何故だかわからない。けれど、懐かしさと寂しさが、静かに、絶え間なく降り注いでいた。
◇
「おーい。シャルロット、着いたぞ」
少し前から目は覚めていたのだが、先ほどの感覚が忘れられず、目を開けるのを拒んでいた。
頬に、乾いた涙の跡が残っている。私はそれを、父に気づかれないようにそっと拭った。
そして父の言葉に促され、重い瞼を持ち上げる。
「んー……」
小さく息を吐きながら、ゆっくりと両腕を頭の上に伸ばした。2日間揺られ続けた身体は、あちこちが軋んでいる。
馬車の窓の向こうに広がるのは、故郷とはまるで違う景色だった。
見上げるほどに巨大な城門。その向こうへ吸い込まれていく、人、物、文化。そのすべてが集まる、「国の中心」としての賑わい。
「相変わらず騒がしい街ですね……」
来るのは初めてではないが、王都というのは来るたびに驚かされる。数千年の歴史が息づく石畳の街並み。
そして家々の屋根の向こうには、大神殿の白い尖塔が、空を突くようにそびえていた。明日、私はあそこで祝福を受ける。
「シャルロット、前にも言ったが儀式は明日行われる。でもその前に、今日はおいしいものを食べるぞ!」
私は思わず苦笑いを浮かべた。父の本当の目的は、それなのではないかと思えてくる。……なんて冗談よ。
馬車を降り、父とともに目的の店へと向かう。大通りの人の多さは想像以上で、気を抜けばすぐに流されてしまいそうだった。私は人混みを避けるように、父の背中を追って歩く。
「シャルロット、離れるなよ」
「子供扱いしないで」
そう言いながらも、父は何度も振り返っては、私がついてきているかを確かめていた。
目的の店の前に着くと、私たちは懐かしい姿を目にした。
王国騎士団の隊服を身にまとい、腰には1振りの剣。黒髪に、海を思わせるような蒼い瞳。顔立ちは整っているが、どこかまだ幼さを感じさせる少年。
「……ん? まさか、シャルか?」
この声は間違いない。
私と同い年の幼馴染。彼は10歳の若さで騎士団の門を叩き、故郷を出ていった。会うのはそれ以来になる。
「ローラン!? ローランなのね! 久しぶりね。貴方もとても成長して……ないわね。まだ私のほうが背が高いもの」
「うるさい。僕は貴様のような無神経さが嫌いだ」
ローランはむっとしたように眉を寄せ、それから小さく付け加えた。
「それに、僕はこれから伸びるぞ」
相変わらず生意気で、負けず嫌いなところが変わっていない。それがなんだか嬉しくて、つい笑みがこぼれる。
「何が可笑しいんだ、まったく。僕はお前と違って暇じゃないんだ。ところで、お前は何をしに来たんだ?」
「女神様からの祝福を受けに来たのよ。とうとう私もこの時が来たってわけ。この街は疲れるから、早く帰りたい気持ちはあるんだけどね」
その言葉を聞いたローランは、一瞬だけ顔を曇らせたように見えた。だが、すぐに表情を切り替える。
「そうか。お前も、そういえばそうだったな。……ただ、最近は女神様の儀式を狙った事件も増えているらしい。気をつけるんだな」
その言葉を聞いて、私はまた胸騒ぎがした。ここ数日続く悪夢。馬車の中で見た、あの光景。
──『あの時、ここにやって来なければ』
そんな、もしものことを後になって考えるかもしれない。根拠もなく、そんな予感がした。
父が口を開いた。
「ローラン、すまん! ちょっと俺は用事があるから、少しの間だけでいい、シャルロットを見ていてやってくれないか。先に宿へ連れて行ってもらえると助かる」
「何故僕がこんなやつのことを……。まあ、仕方がない。早く済ませてくるんだな」
「おいしいものは?」
「戻ってからだ!」
父は軽く手を上げて礼を言うと、行き交う人々の波へと身を滑り込ませていった。何度か見え隠れしていたその背中も、ほどなくして雑踏の向こうへ消えてしまう。
早く戻ってきてくれればいいのだけれど。
「……では、僕たちも行こうか」
ローランの言葉に頷き、私たちもまた人混みの中へと歩き出した。目指す宿は、ここからそう遠くない。
◇
子供たちと別れた父は、王都の中央──大広場にそびえる女神像へと向かっていた。
幾本もの大通りが交わるその場所は、遠くからでも、建物の屋根越しに白い女神の姿が覗いて見える。広場では鳩が群れをなして舞い、像の足元には祈りを捧げる人々の姿が絶えなかった。花を供える老婆。手を合わせる若い夫婦。
父はその人波の外れで足を止め、ゆっくりと像を見上げた。何百年ものあいだ変わらぬ微笑みを浮かべる、白い石の女神。
その姿を目にした瞬間、父の表情から、わずかに温度が消えた。無意識のうちに、その手が自らの胸元へと伸びる。
「14年振りか……。この14年間、時計の音はいつもより早く時を刻んでいたように感じるな」
呟きは、広場の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
◇
時を同じくして、王都の喧騒から外れた、細い路地裏。
陽の光さえ満足に届かない石壁の陰に、いくつかの人影があった。皆一様に外套を纏い、深くフードを被っている。
その中心に立つ1人が、壁にもたれかけていた背を起こした。外套の裾から、使い込まれた剣の鞘が覗く。
「……準備は?」
「整っています。明日、大神殿へ」
仲間の1人が答えると、フードの奥で、小さく笑う気配がした。
「そっか。……ずいぶん待たせちゃったね」
その声は、若い女のものだった。軽やかで、どこか楽しげで、それでいて揺るぎのない響きを帯びている。
フードの人物は、路地の隙間から覗く大神殿の尖塔を見上げた。その顔は、深く被ったフードの影に隠れて見えない。
「──私たちの女神様に、最高の祝福を届けようじゃないか!」




