目覚めの朝
私を殺した父は、救世主であり、神王と呼ばれている。
ある町の壁に、一枚の紙が貼られている。
外套のフードの陰から、私はそれを眺めていた。
黄ばんだ羊皮紙には、不敵な笑みを浮かべている整った顔立ちの女の似顔絵。
──名は、シャルロット。
──神威を盗みし魔女。
──女神に手をかけ、世界再禍の兆しを孕む者。
──匿う者は、同罪である。
この世界は、どこを見渡しても私の手配書だらけ。
私はこの世界の敵。世界再禍の兆しを孕む者って扱い。
それにしても、この絵を描いた人は、私の顔を見たことがないのね。……いえ、〈神威を盗みし魔女〉という肩書きが、こんな顔を描かせたのかもしれない。
いずれにしても、私はこんなふうに笑ったことなんてない。
『魔女』
そう呼ばれるようになった日のことは、今でも鮮明に覚えている。
まだ何も知らなかった、あの日のことを。
──そして私の中の私が、死んだ日ことを。
耳の奥で、何かが崩れ落ちる音がしていた。焦げた石の匂い。肌を刺すような熱。視界が少しずつ鮮明になるにつれ、闇にぼやけていた人影が輪郭を取り戻していく。
先ほどまで戦っていた相手──
私の目の前に立っているのは、私がよく知る男。その姿は紛うことなき、私の父親である。
しかし、私がよく知る姿とはまるで違う。穏やかに笑っていたはずの目元には温度がなく、その身体からは、人のものとは思えない光が滲み出していた。
本当にあのお父様なの? 考えている時間はない。それでも、口にせずにはいられなかった。
「……どうして……どうして貴方がこんなっ……」
私の前に立ちはだかる人物。見知っているもののはずなのに、私の全身がそれを否定している。
夢なら、ここで覚めてほしかった。
たった一人の肉親。誰よりも信頼できる人だった――そのはずでしょう?
男は口にした。聞き慣れない口調。聞き慣れた声。
「君が生まれた朝……私は神に感謝した」
◇
「シャルロット。起きなさい」
聞き慣れた声に、目を開けた。
父が私の顔を覗き込んでいた。
「……っ」
思わず身を引く。背中が壁に触れ、ようやく自分が寝台の上にいることに気づいた。
見慣れた天井。窓辺で揺れる色褪せたカーテン。棚の上に並んだ、幼い頃に港で拾い集めた貝殻。目を開けた先にあったのは、私にとっていつもと変わらない、当たり前の風景だった。
「どうした? 汗びっしょりだぞ。怖い夢でも見たか?」
父は伸ばしかけた手を止め、不思議そうに眉を寄せた。
私はその顔を見つめる。少し寝癖のついた髪。目尻に刻まれた笑い皺。全身で否定した、父らしき人とはまるで違う。今ここにあるのは、娘を案じる見慣れた父親の表情だった。
「夢……? うん、いつものお父様だ」
「なんだそれは。父はいつだって父だぞ?」
父は呆れたように笑った。
夢というには、少し違和感があった。焼けつくような熱も、崩れ落ちる音も、まだ肌のどこかに残っている気がする。
それでも、窓から流れ込んだ風が汗ばんだ首筋を冷やし、潮の匂いが私を日常へと引き戻してくれた。
「今日は大事な日なんだから、まずは顔でも洗って早く準備しなさい」
父はそう言うと部屋を出ていく。私はその背中を、扉が閉まるまで目で追った。
一人になると、少し肩の力が抜けた。しかし胸のざわめきは消えない。
─君が生まれた朝……私は神に感謝した。
夢の中の父の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「おーい、シャルロット。聞こえているのか?」
廊下から父の声がした。
「……ごめんなさい。すぐ準備します」
顔を洗い、階段を下りていく。
窓辺から見える坂道に沿って並ぶ白い家々。その屋根の向こうに、朝日を受けた海が見えた。
私はシャルロット。ヴァルネリア王国の都から少し離れた、この港町で生まれた。
海に抱かれた土地。それが、この国の名の由来だという。
窓から見える湾は、両側から伸びる岬に囲まれている。幼い頃は、あの岬が世界の端だと思っていた。父に手を引かれて港へ行き、沖を指さしては、その向こうに何があるのか尋ねたものだった。父はそのたびに笑って、いつか自分の目で確かめればいいと言った。
今日は私の14歳の誕生日。
この国では14歳になると都へ行き、女神様からの祝福を受けることになっている。大神殿の祭壇で祈りを捧げ、女神の加護が生涯ともにあるよう願う――それが祝福の儀だ。
とはいえ、形式的な儀式だろう。実際に女神を見た者はいないし、祝福を受けて特別なことが起きたという話も聞いたことがない。近所の子たちも、皆、何事もなく帰ってきた。
今日は私の番。ただ、それだけ。
「シャルロット、準備はできたか?」
外から父の声がした。玄関を出ると、父はすでに馬車を用意して待っていた。
私はあまり着慣れていない、青く重たいドレスに身を包んでいる。裾を踏まないように気をつけながら、父の手を借りて馬車に乗り込んだ。
都までは2日間の旅だ。御者が手綱を鳴らし、馬車がゆっくりと坂道を下り始める。
「シャルロットもついにこの日が来たんだなぁ……あんなに小さかったのに……あっという間に大人になって。女神様に粗相がないようにな!」
「もう、何を言っているのお父様。それに、あれは形式的な儀式じゃない」
「そんなことないぞ、シャルロット。あれは大事な儀式だ。それにしても、お前が小さいころはだな……」
父の、私の子供のころの話が止まらなくなってきた。
港で迷子になって泣いていたこと。初めて一人で市場へお使いに行った日のこと。何度聞かされたか分からない話ばかりだ。
それを私は話半分に聞きながら、夢のこと、儀式のことについて考えていた。
──あれは夢というにはあまりにも……
目覚めてから一度も消えないざわめきに、私の心は揺れ動かされている。でも、今は考えても仕方がない。
儀式に対する緊張もあるけれど、久しぶりの都は少し楽しみにしたいわ。
揺れる馬車の中で、私は少しの不安と高揚を胸に、窓の外を眺める。坂道の白い家々が、岬が、朝日にきらめく海が、少しずつ小さくなっていく。
遠ざかる故郷を眺めながら、私はいつの間にか眠りについていた。
◇
「14度目の夏。女神様からの祝福を受けた。そして──紫がかった黒いドレスを私は…憎んだ」




