夢の続き
新世界が崩れ行き、そこが一瞬のうちに入れ替わっていく。あの男の冷たい気配が潮のように引いていき、代わりに満ちてきたのはどこか懐かしい、柔らかな気配だった。
気がつくと私たちは、台座の空いたあの広間に立っていた。旧き世界の大神殿。女神様が守ってくれた世界が、ようやく表に戻ってきたのだ。
「シャル……!」
リゼの声が遠くに聞こえた。
胸の奥が熱い。金色の光が、1筋どころか何十、何百と、世界中から私の胸へ集まってくる。楔だった光だ。あの男が世界中に打ち込んだ力の欠片が、行き場をなくして全部私のところへ流れ込んでくる。普通の人間なら、とっくに壊れていたでしょうね。
──この力の源泉は、あなた自身よ。
あの日、もう1人の私が教えてくれた言葉。
私は息を吸った。吐いた。溢れそうになる光を、自分の内側にゆっくりと収めていく。
『大丈夫?』
セレネが私の背にそっと手を当てた。
「……ええ。なんとか」
隣でミラが心配そうに私の袖を握っていた。
セレネもミラも、まだここにいる。あの男の世界はまだ完全には消えてはいないから。
そう思ったそのときだった。
コツ。
広間の入口から靴音が響いた。
ローランが私の前に立ち、リゼが剣を抜く。
現れたあの男の白い外套は、裾が焦げていた。胸元の紋様は苦しそうに点いたり消えたりしていて、そこから剥がれた細い光の糸が、私のほうへ流れてくる。止めようとしても止まらない。まるで傷口から血が流れ出ているようだった。
あの男。
「……ここでしたか」
ミクトランは空っぽの台座を見上げた。
「やはり貴女でしたね。女神様」
誰もいない台座に向かってそう言った。
それから、私を見た。
「シャルロット。その力を返していただきます」
「返す? これはあなたが奪ったものよ」
「ええ。ですから返していただくのです」
その姿が消えた。
魔女と神がお互いの存在をかけてぶつかり合う。
どれくらい戦っていたのだろう。
耳の奥で何かが崩れ落ちる音がしていた。焦げた石の匂い。肌を刺すような熱。
大神殿の柱が、1本、また1本と倒れていく。天井の高みから白い石の欠片が雪のように降り注いでいた。
ローランとリゼは、広間の隅でミラを庇うように立っている。セレネがその前に光の壁を張っていた。
金色と金色。
ぶつかるたびにあの男の光は削れ、私の方へと流れ込んでくる。それでもあの男は止まらなかった。
視界が少しずつ鮮明になるにつれ、闇にぼやけていた人影が輪郭を取り戻していく。
先ほどまで戦っていた相手──
私の目の前に立っているのは、私がよく知る男。
知っている。この光景を、私は知っている。7年前、14歳の誕生日の朝に見て、それから何度も見てきたあの夢と同じだ。穏やかに笑っていたはずの目元には温度がなく、その身体からは人のものとは思えない光が滲み出している。
夢なら、ここで覚めてほしかった。でも、これは夢じゃない。
「……どうして……どうして貴方がこんなっ……」
夢の中と同じ言葉が私の口から零れた。
あの男は口にした。聞き慣れない口調。聞き慣れた声。
「君が生まれた朝……私は神に感謝した」
夢はいつもここで終わっていた。
けれど、今日は終わらなかった。
「娘を授けてくれたことに」
あの男は静かに続けた。
「そして女神への鍵を授けてくれたことに」
息が止まった。
「……どちらが本当なの」
「どちらもです」
あの男は目を逸らさなかった。
「時計がもっと遅く進めばいいと何度も願いましたよ。何も起きなければそれでもよかった。……ですが女神は目を覚ました」
嘘だって言ってよ。最初から鍵としか見ていなかったって、そう言ってくれたら、まだ楽だったのに。
でも、あの男の目は嘘をついていなかった。
あの男の胸から剥がれた光が、また1筋、私の中へ流れ込んできた。
その瞬間、自分のものではない景色が、音が、匂いが、頭の中へ流れ込んできた。
◆
暗い部屋。冷たい台。
番号で呼ばれる子供たち。
◆
『エミルも行ける?』
『ああ。そのときは兄ちゃんが連れていってやる』
◆
冬の朝。泥の匂い。白い外套。
『お兄ちゃんッ……』
◆
光を纏った男の中から、泣き声が聞こえる。
『──お兄ちゃん』
◆
焼けていく世界の中心に、宵闇を幾重にも織り込んだドレスの女神が立っている。
その瞳は何も見ていない。足元で震える1人の少年も。
『お兄ちゃんが連れていってくれるって言ったもん』
「目覚めると君はどこにもいない」
◇
頬を何かが伝っていた。
私の涙なのか、流れ込んできた誰かの涙なのか、分からなかった。
「……エミル」
私が零したその名前に、あの男の肩がわずかに揺れた。
「見たのですね」
「あなたの妹……?」
「ええ」
あの男は穏やかに頷いた。
「3つ下のよく笑う子でした。……あの子が苦しまない世界を作る。私はそのためにここまで来たのです」
祝福の儀へ向かう馬車の中で聞いた、誰のものか分からなかったあの声は、この人の声だったのね。
私はあの男を見た。白い外套。たった今見た景色の中で、あの子を連れていった男たちと同じ色だ。
口を開くと、自分でも分かるくらい声が震えていた。
「……暗い部屋。番号で呼ばれる子供たち」
「私も、似た子を知ってるわ。北の森の神殿の地の底で」
あの男の表情は動かなかった。
「黒い服の人たちがときどき見に来るの。おまえは写しだからここで待っていればいいって。……あの子はずっとひとりで、水に足を浸して待ってた」
私はミラを見た。
セレネの光の壁の向こうで、小さな少女がこちらを見ていた。
「ミラはあなたの妹と何が違うの」
あの男は、答えなかった。
遠くで、石の崩れる音だけがしている。
「14の夏にあなたは私を都へ連れていった」
止まらなかった。
「エミルを連れていけなかった都へ。……あの子との約束を、あなたは私を壊すために果たしたのよ」
あの男の唇がわずかに動いた。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
「エミルの代わりなんてどこにもいないのに」
あの男は長いこと黙っていたが、やがて口を開いた。
「……では殺しなさい」
「私を殺せばその力はすべてあなたのものです。あなたが神になればいい。……あなたなら私よりも正しく世界を扱えるかもしれない」
──正しく世界を扱える者が、神になるべきだ。
あの日、この場所で、あの男が女神に告げた言葉。
それを今、私に差し出している。
私は笑った。自分でも驚くほど自然に、口の端を吊り上げて。手配書の中の、あの魔女のように。
「お断りよ」
あの男の目が見開かれた。
「私は、神にはならない。私はあなたが作った魔女だもの」
あの男は、私の顔をじっと見ていた。初めて私の顔を見たとでもいうように。
「……そんな顔をするようになったのですね」
その声はほんのわずかに掠れていた。
手配書の魔女の顔。私はこんなふうに笑ったことなんてない──そう思っていたのに、今、自分でこの顔をしている。
「セレネ」
私は振り返った。
光の壁の向こうで、セレネが静かにこちらを見ていた。
この力を渡せば、セレネは女神になって、あの男の世界と一緒にいなくなってしまう。ミラも。分かっている。分かっていて、私は選ぶ。
『いいのよ』
セレネが私の迷いを見透かしたように笑った。
『私はそのために目を覚ましたんだもの』
「お姉ちゃん」
ミラがセレネの隣で小さく手を振った。
「わたしもいっしょだよ。だいじょうぶ」
──貴女の好きなようにやりなさい。貴女は私じゃないんだから。
女神様。
これが私の選んだ道です。
私は胸の奥の光に手を添えた。
奪われるのではなく。ぶつけるのでもなく。
「──届いて」
手渡すように。
金色の光が私の胸から溢れ出し、川が海へ流れ込むように、静かにセレネのほうへ流れていく。あの男の胸から剥がれた光も、楔だった光も、私の中にあった光も、全部。
セレネの白い衣が光に包まれた。
裾からゆっくりと色が変わっていく。白から、夜明け前の空の色へ。そして、さらに深い夜の色へ。
宵闇を幾重にも織り込んだ、紫がかった黒いドレス。
あの男が息を呑み、掠れた声で呟いた。
「……女神」
14度目の夏に見たあの姿。焼けていく世界の中心で、何も見ていなかった女神。
セレネはゆっくりとあの男の前へ歩み出た。
そして、まっすぐにあの男を見た。
『あの日の女神は何も見ていなかった』
『……私はあなたを見ているわ』
あの男は動けなかった。
セレネが手を差し出す。
『迎えに来たわ』
その隣でミラが小さな手を伸ばした。
あの男の白い外套の裾を、そっと掴む。
「──いっしょにいこ」




