水面に映った月
「懐かしいわね……」
旧き世界の中なら、女神の力を使っても、あの男には届かない。港町から王都まで、半日もかからなかった。
王都の大広場には、今も白い女神像が立っていた。
足元には花。祈る人の背中。あの朝と、何も変わらない。7年ぶりなのに。
シャルロットは、その前を足早に通り過ぎた。それを見上げることはしなかった。
大神殿の白い尖塔が、夜の空を突いている。
「警備の交代の刻限は、7年前と変わっていないな」
闇に紛れて裏手の回廊を進みながら、ローランが呟いた。
前を行くローランの足取りには迷いがない。
「覚えてるの?」
「あの日のために、何度も叩き込まれた。……結局、1度も役には立たなかったが」
最奥の間は、静まり返っていた。
女神像が立っていたはずの台座だけが、空っぽのまま残されていた。
大広場の像は変わらずそこに立っているのに、ここにいた女神は、もうどこにもいない。
シャルロットは、祭壇の前に立った。
あの日、ここで祈った。ここで鐘を聞いた。ここで、女神が目を開いた。
そして、ここで──
無意識のうちに、手が胸元へ伸びていた。
傷はもうどこにもない。だが、あの手の温度のなさを、身体はまだ覚えている。
「シャル」
リゼが、その肩にそっと手を置いた。その言葉に胸元の手が下りる。
「……大丈夫。行きましょう」
シャルロットは、空っぽの台座へ掌を向ける。
金色の光を魔力の糸で幾重にも包んでいく。繭を紡ぐように、一筋も漏らさずに。
旧き世界と、あの男の新世界。並んで存在する2つの世界は、同じ場所へ繋がっている。
つまり、ここから渡れば……。
◇
空気が変わる。
同じ形の広間に降り立つ。けれど、そこに満ちていたのはあの男の気配だった。
北の森の楔と同じ。冷たくて、偉そうな気配。
神王の城塞と一体になった、新しい世界の大神殿。その最奥。
女神像があったはずの場所に、それは立っていた。
要の楔。
北の森の本体よりも細く、静かな光の柱。それなのに、その足元からは数えきれないほどの光の根が石の床へ潜り、王都の地の底へ、街道の向こうへ、世界の果てへと伸びているのが分かる。
そして透き通った柱の中に、1人の少女が、眠っていた。
白い衣を着て、長い髪を肩に流して、胸の前で手を組んで。祈るような姿で眠っている。
シャルロットは、息を呑んだ。
似ている。私にも、ミラにも。
知らない顔のはずなのに、ずっと前から知ってた気がする。
「……もう1人の、私」
北の森で、ミラの中から聞こえた声。その持ち主だと、なぜか分かった。
「シャル、伏せろ!」
ローランに頭を押さえられて、床に転がる。頭上を魔力の刃が掠めていく。
柱の陰から、黒い甲冑が現れる。1人、2人──6人。封鎖を命じられた近衛たちだ。甲冑の紋様が、北の森で見たどの近衛よりも強く光っている。
「要の楔の真上だ、一瞥が桁違いに強い!」
「言われなくても!」
リゼが、前へ躍り出る。
剣戟の音が、静かだった広間を引き裂いた。
ローランが2人を同時に相手取り、リゼが放たれる刃を次々と弾く。それでも押されている。近衛の刃は重いし、速いし、何より数が多い。2人にかけた加護が悲鳴を上げるように軋むのが分かる。
「お姉ちゃん、あそこ」
ミラが要の楔の根元をまっすぐ指さしている。
「あそこが、いちばんうるさいの。むすびめが、あつまってるところ」
シャルロットは頷き、指先に光を灯した。
もう、隠す必要はない。
魔力の糸ではなく、女神の力そのものを。金色の光が、広間を満たしていく。
「……感知されるぞ」
「いいの。これが、最後だから」
金色の光に触れた瞬間、近衛たちの紋様が一斉に掻き消えた。
一瞥の加護を失った刃が、ただの光の粒となって霧散していく。呆然と立ち尽くす近衛たちを、ローランとリゼが1人ずつ沈めていく。
そして最後の1人が倒れる。
シャルロットは要の楔の前に立ち、振り返る。ローランは剣を下げないまま、こちらを見ていた。
「……見てて」
「見ている」
短く、ローランは言う。
「今もだ」
シャルロットは、要の楔に手を触れた。
冷たいと思っていた柱は、温かかった。
気づけば、女神と言葉を交わしたのとよく似た場所にいた。
上も下もない。音もない。
そこに、彼女は立っていた。
シャルロットに、よく似た顔。
同じ魂で、違う世界に生まれた、もう1人の私。
その輪郭は、水面に映った月影のように、絶えずかすかに揺らいでいる。
『やっと会えたわね』
「……ええ。やっと」
しばらく、2人は黙って向き合っていた。
聞きたいことは、山ほどあったはずなのに。何から話せばいいのか、分からなかった。
『私はね、この世界のシャルロットなの』
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
『あの男がこの世界を作ったとき、私も一緒に生まれた。あなたの同位体として。……でも、私には帰る家も、手を引いてくれる人もいなかった。目を覚ましたときには、もうここにいたわ』
この子が、要の楔の核なのね。
『あなたが女神様の力を受け取っていたから私たちは繋がった。同じ存在だから。そのとき女神様の記憶と意志が、少しだけ流れ込んできたの。だから1度だけあなたに話しかけられた。そのあとは、ずっと眠っていたけれど』
「だから、あのとき……『私は、あなたに宿った力』って」
『……半分は、本当でしょう?』
彼女は、悪戯っぽく笑った。
その笑い方は自分とよく似ていて、けれど、どこか静かな笑い方だった。
『もう半分の私は、この世界におけるシャルロット。……名前だって、自分のものじゃないわ』
その言葉が、胸に刺さった。
シャルロット。
お父様がくれた名前。女神シャルロッテと、1文字しか違わない。
「……その名前、私もね、自分のものだって胸を張れるか分からないの」
『え?』
「女神様とほとんど同じ名前でしょう? あの人がどんな気持ちでこの名前をつけたのか、今の私には、もう分からない」
シャルロットは、彼女の前に立った。
「だから、あなたには、誰の写しでもない名前をあげたい」
彼女の目がわずかに見開かれる。
「あなたはいつも、水面に映った月みたいだった」
初めて声を聞いたあの日も。ミラの中から語りかけてきたときも。
シャルロットは、その手を取った。
冷たくはなかった。
「──セレネ」
白い世界に、その名前が静かに響いた。
「あなたの名前よ。……セレネ」
彼女は──セレネは、しばらく何も言わなかった。
ただ、その名前を確かめるように、唇を何度か動かした。
それから、笑った。
その輪郭は、もう揺らいでいなかった。
『素敵な名前ね。もらっても、いいのかしら』
「あげるために、つけたのよ」
『……ありがとう、シャルロット』
セレネがシャルロットの手を握り返す。
『さて、じゃあ要の楔、壊しちゃいましょうか。内側からは私が。外側からは、あなたが』
セレネの胸の奥で、金色の光が灯る。北の森で、ミラを通って流れ込んだ女神の力。あの男の鎖をすり抜けて、ここまで届いた光。
『この力がなかったら、私は内側から何もできなかった。……あの子のおかげよ』
「……ミラの」
『ええ。あとで、ちゃんとお礼を言わなくちゃ』
シャルロットは、目を開けた。
掌の下で、要の楔が脈打っている。
その内側から、もう1つの鼓動が聞こえた。自分と同じ律動で。自分と同じ温度で。
魔力の糸を、結び目へ編み込む。
同時に、内側から金色の光が結び目を押し広げてくる。
外からほどき、内からほどく。固く結ばれていたものが、2つの手に挟まれて静かに緩んでいく。
亀裂が走った。
1本。
2本。
3本。
やがて亀裂は柱全体を覆い尽くし──
澄んだ音が、響いた。
その音は、大神殿の中だけでは終わらなかった。
根を通り王都の地の底へ。街道の向こうへ。北の森へ。シャルロットたちがかつて楔を壊した、4つの聖地の跡へも。まだ誰も知らない、名もない土地へも。
世界中に張り巡らされた光の根が、一斉に砕けていった。
まるで世界が、長い長い息を吐いたようだった。
「……終わった、の?」
リゼの呟きに、誰も答えない。
砕け散った光の欠片の中に、少女が立っていた。
祈るように組まれていた手がゆっくりとほどけていく。瞼が震えて、セレネが目を開く。
その瞬間、広間の空気が変わった。
ミラが、セレネを見上げていた。
「……女神様だ」
隣で、リゼが小さく言う。違うと分かっているはずなのに、その目は路地裏で誰かを待っていた子供みたいに潤んでいる。
ミラがそっとリゼのそばを離れた。
「……あなたが、わたしの……」
セレネは、少女の前に膝をついた。
『ええ。……でも、あなたは私の写しなんかじゃないわ』
その指先が、ミラの頬の罅にそっと触れた。
少しだけ考えてから、セレネは言う。
『そうね。妹、かしら』
ミラはきょとんとして、それから笑った。
「……なにそれ。姉妹なんて、ずるい」
リゼが泣き笑いの顔で言う。
◇
北の森の地の底で、ミクトランは顔を上げた。
大神殿で、女神の力が弾けた。
すぐさま、楔を伝って王都へ──
そう思った瞬間、足元の道が、消えた。
世界中の楔が、1本残らず砕けていく。その感触が、胸の紋様を通して、骨の髄まで響いてきた。
「……まさか」
継ぎ目に当てていた掌の下で、亀裂が、大きく口を開けた。
押さえる意味は、もうなかった。
裂け目の向こうに、景色が透けていた。
白い家々が、坂に沿って並んでいる。
その屋根の向こうに、月を受けた海が光っていた。
両側から伸びる岬。その間に抱かれた、穏やかな湾。
ずっと暮らした町だった。
妻と出会い。娘が生まれ。毎朝、あの海を眺めた町。
消したはずの、町だった。
仮説が、答えに変わった。
ミクトランは、しばらくその景色を見つめていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。白い外套の裾が、裂け目から吹く潮風に揺れた。
「……まだ、終わらせはしません」
ミクトランは、裂け目へと足を踏み入れた。




