いつか自分の目で
シャルロットたちが脱出してから3日が経過した。
崩れた空洞の底で、ミクトランは未だに裂けていく亀裂の対処に追われている。
掌を当てた場所から、世界のほつれの進行を感じている。手を離せば、この亀裂は北の森を呑み、やがてこの一帯は消えてしまうだろう。
崩れた石段の上から、近衛たちはこちらを窺っている。地域魔力の安定術式の一環だと思っているのか、大地が裂けていることに緊張感は感じられない。
そんな中で、ミクトランは思考を巡らせていた。
過去に起きたこととこの場所で起きたことを含めて、自分の仮説を組み立てていた。
あの少年。旧き世界とともに消したはずの少年が、なぜ生きている。
あの風。北の森の地の底に、海などあるはずがない。それなのに、あれは潮の匂いだった。毎朝、窓を開けるたびに嗅いだ匂い。
そして、核。ミラの器から溢れた力は、鎖をすり抜けて大神殿へ流れていった。眠っているはずの核が、あの力を求めたとでもいうのか。
──全部は、渡さない。
消えゆく女神の声が、耳の奥で蘇る。
あれは、力のことだけだったのか。
そもそも、シャルロットは生きていた。あの瞬間のあの娘に、こちらの力を防ぎきるほどの力は使えなかったはずだ。
まさか。いや、だが、それなら辻褄は合う。
「女神め。やってくれたな……!」
声は岩肌に吸われ、どこにも響かない。消えていく女神は最後に言った。全部は渡さない、と。
あのとき私は、それを最後の抵抗であり、シャルロットへの残りの力の譲渡だと受け取った。だが、この仮説が正しければ……。
ミクトランは、石段の上の近衛を呼んだ。
「急いで王都へ伝えなさい。大神殿は封鎖する。私が戻るまで誰1人として近づけてはなりません」
「はっ。……陛下はどうなさいますか」
「まだ術式は完了していません。私は、ここに残ります」
あの風がどこから吹いてきたのかを、見つけなければならない。
その先に、自分の仮説の答えがある。
◇
シャルロットたちが北の森を抜けて、2日が経過した。
ミラの頬の罅は、あの日以来治る様子を見せない。
街道から外れた廃屋に身を潜めてから、何度もミラの頬に手を当てている。
女神の力なら治せるかもしれない。でも、今それを使えばあの男に気づかれる。魔力をいくら流しても、光はミラの器をすり抜けていくだけだった。
「もういいよ、お姉ちゃん。いたくないもん」
ミラは、そう言って笑う。
私が泣きそうな顔をしているのを、分かっていて笑うのだ。
そんな顔で、笑わないでよ。
『その罅は、治らないわ』
声がしたのは、その夜、焚き火を囲んでいたときだった。
私の胸の内側から。そして膝の上で眠りかけていたミラの内側から、同じ声が重なって聞こえた。
焚き火の向こうでローランが剣の柄に手をかけ、リゼが弾かれたように顔を上げる。2人にも聞こえているのだ。
『ごめんなさい。あの子を楔から切り離すには、あれしかなかったの』
「……あなたは、誰なの」
ずっと喉につかえていた問いが、ようやく外に出た。
「あの日、私に眠る時間だと言った声。あなたは、私に宿った力だと言ってたわ。でも、それだけじゃないんでしょう?」
声は、少し黙った。薪がぱちっと爆ぜた。
『半分は、本当よ』
困ったような笑い声だった。どこかで聞いたことがある。ローランも、リゼも私と同じような表情をしていた。
『でも、それを話すのは、会ってからにしましょう。……私は、大神殿にいるわ』
「大神殿……?」
『あの男が打ち込んだ楔は、全て1本の楔から伸びた根なの。あなた達も力がどこへ飛んでいったか見たでしょう。その1本──要の楔は、王都の大神殿にある。……私は、その要の楔の核にされているの。だから要の楔を壊せば、根も含めて全て壊れる』
「じゃあ、今まで僕たちが壊してきたのは」
ローランの声が、低く唸った。
『無駄じゃない。根のほうの楔を壊せば、そこを維持するための力は届かない。要の楔を壊さない限り世界の根底は崩れないけど、綻びはでてくる。それで、あの男に焦りが生じたのね。そして安全策としてミラを使った。けれど、あなたがミラを通して力を渡してくれた、それで私は目を覚ませた』
声は、静かに続けた。
『要の楔は、今のあなたの力だけでは壊せない。けれど、私が内側からも力を与えていけば、壊せる』
これで、終わらせられる。あの男の作った世界を。
私たちの世界を、元の場所に戻すことができる。
でも、声はまだ何か言いたそうだった。
『でも、1つだけ、言っておかなければならないことがあるの』
「……何?」
『そうなれば、あなた達のいた旧き世界は元の場所に戻ってくる。そして、あの男の望みで作られたこの世界は消滅する』
膝の上で、ミラが身じろぎした。
『──もちろん私も。この子も』
しん、とした。焚き火の音だけが、ぱちぱちと鳴っている。
「わたしはだいじょうぶだよ」
沈黙を破ったのは、ミラだった。
いつもと変わらぬ表情で、天井の暗がりを見つめている。
「わたし、楔とつながってたもん。この世界がなくなったら、わたしもなくなるって、前からなんとなくわかってた」
「ミラ……」
「だから、だいじょうぶだよ。お姉ちゃんが、ちゃんとてをつないでくれたから」
ミラは、そう言って笑った。
私は、何も言えなかった。
──あなた自身が、生きていていい人だから。
女神様が私にくれた言葉を、私はまだ、この子に言えずにいる。
◇
「完成したわ」
翌朝、私はローランにそう告げた。
剣を磨いていたローランの手が、止まった。
「……本当か」
「ええ。女神の力を、私の魔力で包むの。外へ漏れなければ、あの男にも感知されない」
「あの技が完成するまで、絶対に女神の力を使うな。……僕が言ったんだったな」
「ええ。何度もね」
ローランは小さく息を吐いて、それから、少しだけ口の端を上げた。
「それで。何に使うつもりだ」
「ミラに、見せたいものがあるの」
女神の力でなら、旧き世界へ渡れる。けれど力を使えば、あの男に気づかれる。だから、これまでは滅多に帰れなかった。
掌の上に、金色の光を灯す。それを、魔力の糸で幾重にも包んでいく。光が、外へ漏れないように。繭を紡ぐように。
そして、その繭で、世界の継ぎ目にそっと触れた。
◇
目を開けると、坂道の上にいた。
白い家々が、坂に沿って並んでいる。その屋根の向こうに、朝日を受けた海が光っていた。
両側から伸びる岬。その間に抱かれた、穏やかな湾。
私の生まれた町。
女神様が守ってくれた、旧き世界。
ミラは、坂の途中で立ち尽くしていた。
息をするのも忘れたように、ただ、海を見ていた。
「……ほんとうに、あったんだ」
小さな声だった。
「ゆめじゃ、なかったんだ」
「ええ。ここが、あなたの夢に出てきた場所よ」
ミラは、ゆっくりと坂を下り始めた。裸足の足が、朝露に濡れた石畳を踏んでいく。
私は、その隣を歩いた。
気がつくと、ミラの小さな手が私の手を握っていた。
手を引かれて、坂を下りていく。
ずっと昔、私もこうして誰かに手を引かれて歩いた。
港へ続く道の途中で、ミラが足を止めた。
沖を、指さす。
「ねえ、お姉ちゃん。あっちの向こうには、何があるの?」
「いつか、自分の目で──」
言いかけて、私は口を閉じた。
この言葉を、私は知っている。
この坂道で。この海を見ながら。私の手を引いていた人が、何度もくれた言葉。
──いつか自分の目で確かめればいい。
あの男の、声だった。
そして、気づいてしまった。
この子には、「いつか」がない。
ミラが、不思議そうに私を見上げている。
答えなければ。そう思うのに、言葉が出てこなかった。何を言っても、嘘になってしまう気がした。
だから私は、ただ、笑った。
ミラは、しばらく私の顔を見つめていた。
それから、ふっと目を細めた。
「……ゆめと、おんなじだ」
「え?」
「ゆめのなかでもね、きくと、その人がわらうの。いまのお姉ちゃんみたいに」
少女は、もう1度海を見た。
「だから、いいの。こたえ、きかなくても」
風が吹いた。
潮の匂いがした。
私は、ミラの手を握り返すことしかできなかった。
坂の上の方に、見覚えのある屋根が見えていた。
窓辺の、色褪せたカーテン。棚の上の貝殻。きっと、あの日のままだ。
「……寄らないのか」
いつの間にか後ろにいたローランが、ぽつりと言った。
「ええ」
私は、首を振った。
「まだ、あの家には帰れない」
全部、終わらせてから。
それまでは。
その夜、私たちは港の外れの古い倉庫で休んだ。
ミラは、窓辺から離れようとしなかった。真っ暗な海を、それでも飽きずに眺めている。
リゼが、その隣に腰を下ろした。
「ねえ、リゼ」
「ん?」
「リゼは、どうして女神様をさがしてたの?」
ミラの問いに、リゼは少しだけ目を丸くした。それから、困ったように笑った。
「……聞いちゃう? それ」
「だめ?」
「だめじゃないよ。ただ、あんまり面白い話じゃないってだけ」
リゼは、窓の外の暗い海に目をやった。
「私さ、王都の路地裏で育ったんだ。親の顔は知らない。気づいたら、そこにいた」
いつもと同じ、明るい声だった。
「冬がね、寒くてさ。誰かが手を引きに来てくれるのを、ずっと待ってた。今日こそ来る、明日こそ来るって。……来なかったけどね」
リゼは、笑った。
「笑ってるとさ、ちょっとだけ平気になるんだよ。来てくれるって信じてるあいだは、ちゃんと笑えた」
ミラは、黙って聞いていた。
「でね。あるとき、決めたんだ。待つのはやめよう。私が、迎えに行く側になろうって」
「むかえに……?」
「そう。路地裏に、同じように誰かを待ってる子がいたら、私が手を引く。……そうやってるうちに、同じことを考えてる人たちと会ってさ。女神様を、本気で信じてる人たち」
リゼの声が、少しだけ柔らかくなった。
「祝福の儀なんて形だけだって、みんな言う。女神様なんていないって。でも私たちは、いるって信じてた。だって、誰も迎えに来てくれない世界なんて、あんまりじゃないか」
「だから、私たちが迎えに行こうって決めたんだ。眠ってる女神様を」
リゼは、ちらりと私の方を見た。
「あの日もね、大神殿に行くつもりだった。形だけの儀式に、本気の祈りを届けにさ。ずっと待ってたんだ、あの日を。……まあ、間に合わなかったけどね。女神様の代わりにいたのが、シャルだった」
壁にもたれて目を閉じていたローランが、不意に口を開いた。
「……騎士団では、お前たちのことを、儀式を狙う集団と呼んでいた」
「知ってる。何度か追い回されたもん」
「あの日、僕は大神殿の警備に就く予定だった」
ローランは、目を開けて、私を見た。
「シャル。王都で再会したとき、お前が儀式の話をしただろう。……任務のことは、口外できなかった。お前の儀式が狙われるかもしれないと、知っていてもな」
「……だから、あんな顔をしたのね」
「どんな顔だ」
「教えない」
リゼが、声を上げて笑った。
「つまりさ、あの日の私とローランは、捕まえる側と捕まる側だったってわけ。それが今じゃ、同じ倉庫で寝てるんだから。分かんないもんだね」
ミラが、リゼの袖をきゅっと掴んだ。
「リゼ。わたしも、むかえに来てもらったよ」
「え?」
「お姉ちゃんたちが、来てくれた。あの暗いところに」
リゼは、一瞬だけ言葉を失った。
それから、くしゃりと顔を崩して、ミラの頭を乱暴に撫でた。
「……そっか。そっかぁ」
笑っているのか、泣いているのか、分からない顔だった。
夜が更けて、倉庫の中が静かになった頃。
リゼが、壁から背を起こした。
「……準備は?」
ローランが、剣を鞘に納める。
「できてるよ」
私は、眠るミラの髪をそっと撫でてから、顔を上げた。
「──明日、大神殿へ」




