この子は、ミラ。
覚えていますかですって? 覚えているに決まってる。忘れられるものか。
白い衣が赤く染まったのも、胸を貫いたあの手の冷たさも、全部。それに、耳元で聞いたあの言葉。
──君が生まれた朝、私は神に感謝した。
あの日からシャルロットはその声を、夢の中で何度も何度も悪夢として、繰り返し聞いてきた。
「……ええ。覚えているわ」
シャルロットは自分から発された感情に驚いた。それは冷静さを感じさせない、怒りに近い感情だった。
「それは何よりです」
ミクトランは微笑んだ。シャルロットとは違い、神王として民の前で見せる表情、何1つ変わらない感情で。
ミクトランのその圧倒的な存在感。凍りついた空気の中で、誰も動けなかった。
金色の粒は宙で止まったまま。吐く息は白い。ミラの背中では、鎖に繋がれた光の輪がぎしぎしと揺れている。
ローランは、剣を構えたまま視線だけを動かした。
楔の本体は、ミラの背後。どちらへ向かうにも、あの男の間合いを抜けなければならない。
──勝てない。
シャルロットの力が大幅に弱体化した今、3人が束になっても、指1本触れられるかどうか。
そもそも、束になったところで意味があるのかすら怪しい。
「シャル、聞け」
ローランは、唇をほとんど動かさずに言った。
「今の僕たちの目的は2つだ。1つ目、楔を壊す。2つ目は、僕たちは誰も死なない、だ。……ここであいつを倒すことは、優先するものじゃない」
「……わかってる」
「わかってるなら、僕の後ろにいろ」
ミクトランが、1歩を踏み出した。
それだけで、床に刻まれた旧い文字が、怯えたように明滅した。
「あまり時間をかけるつもりはありません。その身に宿したものを、返していただきましょうか」
ミクトランはゆっくりと歩き始める。
1歩。
また1歩。
あの日、女神様を手にかけたときと同じ足取りだった。ゆっくりと、あの日を再現するかのようにシャルロットに近づいていく。
それを遮るかのようにローランがミクトランの前に立ちはだかった。
「……退きなさい」
「断る」
ミクトランの視線が、初めてローランへ向く。
「貴様は、あの日僕に言ったな」
剣先が、わずかに震えている。それでもローランは、目を背けず立ちはだかる。
「シャルを見ていてくれ、と。別に貴様に言われたからではないが、シャルは僕が見ている。今もだ」
その声に、ミクトランの足が止まる。
──少しの間だけでいい、シャルロットを見ていてやってくれないか。
王都の大通りで娘とその幼馴染の少年。軽く手を上げて雑踏へ消えた自分。
あの日の光景がミクトランの脳裏によぎる。
間違いない。この少年は、あの日の少年だ。
この世界で生まれた同位体などではない。あの日、あの世界とともに「無」へ還したはずの少年。
──なぜ、ここにいる?
あの娘が女神の力で庇ったのか? いや違う。あの時のシャルロットにそれを扱える力はない。だが、説明がつかない。自分の知らない何か、何かが、あの日の大神殿で起きていたというのか?
しかし、今はそんなことは大したことではない。
「……そうですか」
ミクトランは、それ以上何も言わなかった。
片手を軽く払うだけでローランの身体が、真横へ吹き飛んだ。
石壁に叩きつけられる、鈍い音。シャルロットのかけている加護が、かろうじて彼の命を繋ぎ止めている。
「ローラン!」
「っ……来るな、シャル……!」
「ミラ」
ミクトランの視線は、既にローランにはなかった。
「続けなさいミラ。女神の力が満ちたら、私が受け取ります」
鎖に繋がれた光輪が、再び回り始める。
シャルロットの胸の奥が、見えない手に掴まれた。力を根こそぎ奪い取ろうとしている。
「ぁ……っ」
「……受け取るってどういうこと?」
低い声がした。リゼだった。剣を構えたその肩が震えている。恐怖ではなく彼女もまた怒りに近い感情を見せていた。
「受け取るって何よ。道具みたいな言い方して。あんた、その子を何だと思ってるの?」
「女神の力の器です」
ミクトランは、声のした方を見もしなかった。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
「ふざけるな……!」
リゼはまっすぐミクトランへ突っ込む。踏み込んだリゼの剣は、ミクトランに届く前に見えない壁に弾かれる。それでも彼女はもう1度剣を振り上げる。届かないと分かっていても何度でも。
──資源。
子供をそう呼んだ者たちがいたと、リゼはシャルロットから聞いていた。
目の前の男から聞こえてきた言葉。器。リゼにとっては言葉を替えただけの同じ言葉として聞こえていた。
シャルロットは見えない手に動きを封じられながら、膝をついた姿勢でミラのほうに視線をうつす。
鎖に縛られた光輪の中心で、少女は泣いている。頬の罅から、金色の光が涙のように零れている。
「……おねえ、ちゃん……ごめ、ね……」
「ワタシニ、カエシテ」
まただ。ミラの声と、人形の声。
──だめ。このままでは、全て持っていかれる。
抗えば抗うほど2つの光は溶け合って、奪う側へ流れていく。先ほどと同様の光景が続いた。
抗うのが無駄なら──あの人に、かけるしかない。
「……ミラ」
シャルロットは、抗うのをやめ、引きずり出されていく力に、自分の手を添えた。
奪われるのではなく、手渡すように。
「いいわ。持って行って。……でも、聞いて」
「シャル、何を──」
「貴女に私の声と力、届いて……!」
金色の奔流が、シャルロットの胸から溢れ出す。
さっきまでとはまるで比べものにならない。力を受け取るにつれ、少女の背で光輪が5つ、6つと増えていく。
そして、ミラの頬の罅が、首筋へ、肩へとどんどんと広がっていった。
「愚かな」
ミクトランが、初めて眉を寄せた。
「器を壊すつもりですか」
ミクトランの言う通り、このままではミラは耐えきれなくなって壊れてしまう。
それはシャルロットも分かっている。それでもシャルロットは、力を止めなかった。
(お願い……届いて! 貴女が誰なのかは、私にもわからない。でも感じるの! 貴女を……)
溢れた光は、小さな器を満たし、溢れた。そして──
溢れだした光は楔のほうへと向かっていく。
その瞬間、シャルロットの胸の奥で確かな脈動を感じた。
『──やっと、届いたよ』
声が聞こえる。ミラの口、シャルロットの内側。その両方から、同時に。
『ごめんなさい。私だけずいぶんと寝坊してしまったみたいね』
「……この声は……」
聞き覚えのある声だった。世界が再生誕したあの日、何もない場所で、様々なことを教えてくれた。それに眠る時間だと告げた声だ。
「もう1人の、私……?」
「ワタシハ、アナタ」
ミラの喉から、平坦な声が這い出した。
「ワタシコソガ、ホンモノ──」
『いいえ』
その声は、静かに、けれどはっきりと遮った。
『あなたは私じゃないわ。私を真似ているだけの偽りの人形。……それにね』
光輪の中心で、少女の瞳に、ゆっくりと色が戻っていく。
『この子も、私じゃない。この子は──ミラよ!』
ミラの足元から楔へ伸びていた無数の光の糸が、1本、また1本と音を立てて切れていく。
シャルロットには、確かにその音が聞こえた。
ミラから聞こえていた人形の声が、ひび割れたように掠れていき、最後には消えていった。
ミクトランの鎖が、空を掴んだ。
繋ぎ止めていたはずの女神の力が、ミラの器から抜け落ち、シャルロットのほうへ、そして、王都のほうへと流れ去っていく。
「……これはまさか……」
先ほどまでの穏やかだった声とはまるで違った。
ミクトランは、力の行方の先を見る。その先にあるものを、彼だけは知っている。
「……核のほうへ向かっている……!?」
ミクトランから神王という仮面が外れていく。
楔が悲鳴を上げているかのように番人との繋がりを失った光の杭が、律動を狂わせ、明滅を繰り返す。
残っていた壁の文字も、次々に焼き切れていく。
「シャル、今だ。逃げるぞ!」
ローランが、壁際から叫んだ。血の混じった声だった。
崩れ落ちるミラの身体を、リゼが抱き止めるのが視界の端に映る。
ミクトランが、楔へと手を伸ばしていた。暴れる律動を、片手で抑えつけている。
だがその目は、楔を見ていなかった。力の流れ去った先──王都の方角を、射抜くように見据えている。
──今しかない。
シャルロットの足が向かったのは、出口ではなかった。
掌を、楔に当てる。
ひどく冷たい。触れた場所から、あの男の気配が流れ込んでくる。今までのどの楔より、濃い。
外側から魔力の糸を、結び目に編み込んでいく。固く結ばれたものを、ほどき、緩め、ばらばらにしていくように。
「やめなさい、シャルロット」
すぐ傍で、声がした。
「それを壊せばこの地の継ぎ目が裂ける。あなた達も、無事では済まないぞ」
「知ってるわ」
シャルロットは、手を止めなかった。
「でも、あなたがそれを放っておくわけないじゃない。……そうでしょう? 救世主様」
大地に亀裂が走る。大樹のような大きさの杭が、内側から白く染まっていく。
澄んだ音が、空洞の底に響き渡り、楔が砕け散った。
次の瞬間、足元から世界が裂けた。
地面が鳴る。石が崩れる。天井から小石が降ってくる。床に黒い亀裂が走って──違う、これは床じゃない。世界そのものの裂け目だ。
そしてその裂け目からほんの一瞬だけ、地の底には似つかわしくない風が吹く。
その風は確かに潮の匂いがした。
「……っ」
ミクトランが、膝をつき力を解放する。
胸元の紋様が、灼けるように光っている。その掌は、裂けていく亀裂に押し当てられている。押さえなければ、この亀裂はどこまでも広がっていくだろう。
あの男が楔を通ってここへ来たのなら、その道も、今ので断たれたはず。……たぶん。
少なくとも、すぐには追って来られない。
「行くぞ、シャル!」
ローランが、シャルロットの腕を掴んだ。
「あいつが動けない今のうちに逃げるぞ!」
シャルロットは、振り返った。
亀裂を自らの力で押さえつけるミクトランと、目が合った。
冷たい瞳だった。それなのに、ほんの一瞬だけ、懐かしい目を見た気がした。
「……行くがいい」
ミクトランは、静かに言った。
「ミラ」
次に紡がれた声は、もういつもの神王のものに戻っていた。
「……あなたも、行くのですね」
その声に、リゼの腕の中の少女が、びくりと震えた。
ミラはミクトランと目を合わせることなく、シャルロットのほうへ手を伸ばした。
「……お姉ちゃん」
シャルロットは、その手を取った。
小さな手だった。相変わらず冷たいのに、さっきよりも、ほんの少しだけ温かかった。
◇
「こっち。わたしのおへや、とおるよ」
声はかすれていたけど、ミラの足は迷わなかった。
石段を駆け上がって、細い通路を抜けて、梯子を下りる。背後で、何かが崩れ落ちる音が何度も響いた。
やがて、見覚えのある水面が現れた。
地下の貯水池。少女が「お部屋」と呼んだ場所。
「もう、隠れなくていいんだよね」
ミラが、安堵の顔を見せ少しだけ笑う。
膝まで浸かる冷たい水を、4人は黙って進んだ。
どれほど歩いただろうか。水路の先に、淡い光が見えた。
森だ。夜明け前の、青く湿った森。頭上を覆う枝葉の隙間から、白み始めた空が覗いている。
ミラは、水路の出口で立ち止まり、初めて見る景色を、ただ黙って見上げていた。
湿った腐葉土の匂い。遠くで、名も知らぬ鳥が鳴いた。
「……お姉ちゃんの、いってたにおいだ」
「ええ。これが、森よ」
少女は、笑った。
その頬には、細い罅が走ったままだった。
◇
崩れ落ちた空洞の底で、ミクトランは1人、亀裂に手を当て続けている。
胸の紋様が、灼けるように痛むがそれよりも頭から離れないものがある。
あの少年と核の目覚め。
そして、裂け目から吹いた、あの風。
あの風は懐かしい匂いだった。
坂道に並ぶ白い家々。岬に抱かれた湾。何年も、毎朝のように嗅いだ──
「──海の、匂いか」




