女神の祝福で、終わる世界
崩れた壁の向こうにもう1つの景色が透けて見えていた。
城塞と一体になった白と黒の神殿。神王の紋章を掲げた旗。そして、大地から芽吹いた黄金の樹々。
あの日、再生誕とともに生まれた世界。表の座を失い、裏へ退いた神王の世界。
その黄金の樹々が端から静かに色を失っていく。
セレネがその景色に向かって手をかざした。
『あの世界はもう表には戻れない。でもあの男が残っている限り、きっとまた同じことを繰り返す』
ドレスの裾が崩れた石畳の上で揺れた。
『だから私が連れていくわ。あの世界ごと。……あの男も』
ミクトランは抗わなかった。
抗う力がもう残っていなかったのかもしれない。胸の紋様はほとんど光を失っていた。ミラに外套の裾を掴まれたまま、彼はただ目の前の少女を見つめていた。
セレネはミクトランの前に立つと、白い指先をそっと持ち上げ、その額に触れた。温かい指先だった。
ミクトランの目が見開かれる。この温もりを、彼は覚えていた。
14度目の夏、大神殿の祭壇の前で。光を編んだような髪の女神が、少年の額に触れた。あの指先だ。
──祝福を受けたら、言おう。
言えなかった。その前に扉が吹き飛んで、光を纏った男が現れて、世界が終わったから。あの日からずっと喉の奥に引っかかったままだった言葉。
『あなたの祝福の儀を終わらせましょう』
セレネが穏やかに微笑んだ。
女神の微笑みだった。でも、あの日の女神とは違う。ちゃんと、彼を見ている。
「……私は」
ミクトランの唇が震えた。
零れたのは、14歳の少年の声だった。
「……妹を探してほしいんです」
セレネは答えず、ただ視線をそっと横へ向けた。ミクトランの目が、その先を追う。
◇
崩れた柱のそばでリゼがミラの前にしゃがみ込んでいた。
「……ほんとに行っちゃうんだね」
「うん」
ミラはこくりと頷いた。頬の罅から金色の光がきらきらと零れている。それはもう痛々しい傷には見えなかった。
「リゼ。むかえに来てくれてありがとう」
「……ばか。お礼を言うのはこっちだよ」
リゼはミラの頭をくしゃくしゃと撫でた。
それから、宵闇のドレスを纏った新しい女神を見上げた。ずっと探していた。ずっと迎えに行きたかった、私たちの女神様。
リゼは泣きながら、それでもいつものように明るく笑った。
「私たちの女神様に最高の祝福を!」
◇
ミクトランは、その笑顔を初めて正面から見た。
顔が似ているわけではない。髪の色も、背丈も、声も違う。それなのに、目を細めて、少しだけ首を傾けて、くしゃりと崩れるその笑い方を、ミクトランは知っていた。
『お兄ちゃん、女神様って、ほんとうにいるの?』
ずっと、見ないようにしていた。見てしまえば、気づいてしまう気がしていたから。
「……エミル」
零れた名前に、リゼが振り返った。
「……え?」
涙で濡れた目がきょとんとこちらを見ている。
ミクトランはその目を見つめたまま口を開いた。
ずっと昔。終わりゆく世界の誰もいない静かな場所で。最後まで言えなかった言葉の続きを。
「次に巡り合うときは君を……君を助けたかった」
「約束を守りたかった」
リゼは、何も知らない。
エミルのことも、約束のことも。
それでもリゼはしばらく黙ってミクトランを見つめていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……誰と間違えてるのか知らないけどさ」
鼻をすすってリゼは言った。
「待ってる方はさ、来てくれるって信じてるだけでちゃんと笑えるんだよ。……だからその子もきっと笑ってたと思う」
ミクトランの目から、涙が落ちた。
声は出さなかった。あの日、誰もいない世界でそうしたように。
◇
黄金の樹々が最後の1本まで色を失おうとしていた。
セレネの光がミクトランとミラを包み込む。その輪郭が少しずつ裏側の世界へと溶けていく。
シャルロットが1歩前へ出ると、ミクトランの目がこちらを向いた。目尻に、困ったような皺が寄っている。港町の家で毎朝自分を起こしに来た人の、あの顔だった。
「……シャルロット」
あの男は──父は娘の名を呼んだ。
夏の終わりの朝、生まれたばかりの赤子に初めてそう呼びかけたときと同じ声で。
「岬の向こうには何があった?」
敬語ではなかった。
馬車の中で娘の子供の頃の話を何度も繰り返していた、ただの父親の声だった。
シャルロットの口元が、自然とほころぶ。
「確かめてきたわ。自分の目で」
沖を指さしてその向こうに何があるのかと尋ねた、幼い日。
──いつか自分の目で確かめればいい。
「海が続いてた」
シャルロットはまっすぐに父を見た。
「……世界はちゃんと続いてたわ」
父はしばらく娘を見つめていた。
岬のもっと向こう。何があるの。かつて妻にそう尋ねられたことがある。
──何も、ないさ。
そう答えた。世界の終わりを見た男には、その先に何かがあるとはどうしても思えなかった。
「……そうか」
父は笑った。
目尻に深い笑い皺を刻んで。
その隣でミラが小さく呟いた。
「そっか。……つづきあるんだ」
「ミラ」
シャルロットは少女の名を呼んだ。
ずっと言えなかった言葉があった。あの地の底で刃を向けられたあのときから。
けれど、シャルロットが言いかけるより先に、ミラが口を開いた。
「しってる。お姉ちゃんがてをつないでくれたから」
『シャルロット』
セレネがシャルロットの前に立った。
宵闇のドレスを纏った、自分によく似た顔。
『あなたの中にまだ少しだけ残っているものがあるの』
胸の奥に、まだ少しだけ温かいものがある。女神様からもらったものじゃない。生まれたときから、ずっと私の中にあったもの。
『それも私が持っていくわ』
「……セレネ」
『あなたはもう女神の可能性なんかじゃない。ただのシャルロットとして生きて』
セレネの指先が胸に触れると、温もりがすうっと抜けていった。自分の中にいたもう1人の自分が、静かに離れていく。
──私の中の私が、死んだ日。
あの祝福の儀の日を、ずっとそう呼んできた。
本当にそうなったのは、今日だった。
父と、ミラと、セレネの姿が光の中に溶けていく。
シャルロットはもう1度だけ父を見た。
7年間、心の中であの男と呼び続けてきた人を。
「さようなら、お父様」
父は何も言わなかった。
ただ、最後に1度だけ小さく頷いた。
──カァン。
どこからか鐘の音が響いた。
誰も鳴らしていないはずの大神殿の鐘。
──1度。
黄金の樹々が光の粒となって散っていく。
──2度。
城塞が、旗が、神王の紋章が消えていく。
──3度。
宵闇のドレスの女神が、最後に振り返って微笑んだ。
『あなたたちに最高の祝福を』
女神の祝福で始まった世界は。
女神の祝福で、終わりを迎えた。
◇
──シャルロット。起きなさい。
そう呼ぶ声はもうない。
それでも私は自分で目を覚ました。
見慣れた天井。カーテンが風に揺れていた。色褪せた布の隙間から朝の光が差し込んでいる。棚の上には幼い頃に港で拾い集めた貝殻が並んでいた。
部屋は、あの朝のままだった。
全部終わらせてから、と決めていた家に私は帰ってきた。
「起きて、シャル」
扉の向こうから明るい声がした。
「朝ごはん冷めちゃうよ。ローランが拗ねてる」
「拗ねてない。……おい、勝手に人のせいにするな」
階段の下から不機嫌そうな声。
思わず笑みがこぼれた。
──起きて、私たちの女神様。
あの日、そう呼ばれて目を覚ました。
でも今の私は、もう女神様じゃない。ただのシャルロットだ。
顔を洗って階段を下りる。
窓辺から見える坂道に沿って並ぶ白い家々。その屋根の向こうに朝日を受けた海が見えた。
朝の市場は相変わらず賑やかだった。
魚を売る声やパンの焼ける匂いの中を、子供たちが坂道を駆け下りていく。
その中の1人が、母親の手を引きながら小さな声で何かを口ずさんでいた。
祈りの言葉だった。
この町の誰も知らないはずの名前を呼ぶ祈り。
「──神王様のおかげで」
母親が不思議そうに首を傾げる。
「なあにそれ。どこで覚えたの?」
「わかんない。なんかしってた」
私はその場で足を止めた。
子供は母親に手を引かれて坂の下へ消えていった。
あの男の世界は、もうどこにもない。……いえ、病を癒やし、飢えをなくし、争いを終わらせた救世主の記憶だけは、まだどこかに残っているのかもしれない。
坂道の途中で振り返ると、店の窓硝子に私の顔が映っていた。笑っている。手配書の魔女とは似ても似つかない顔で。
湾の両側から岬が伸びている。幼い頃は、あの岬が世界の端だと思っていた。でも、その向こうにも海は続いている。世界は、ちゃんと続いている。
私を殺した父は、今日も救世主と呼ばれている。
◇
それから、何度目かの夏。
港町の坂の上に白い壁の家が建っている。窓辺には色褪せたカーテンが揺れていて、棚の上には港で拾い集めたような貝殻が並んでいる。
その家には姉妹が暮らしている。
姉は母親によく似た顔をしているが、瞳だけは海のような蒼で、少しだけ静かに笑う。
妹のほうは、朝の光に透けると髪が銀にも淡い金にも見える。誰に似たのかとよく聞かれるけれど、母親もうまく答えられないらしい。それに、どれだけ叱られても靴を履かずに外へ駆けていく。
「おい。いつまで外にいる。冷めるぞ」
家の中から不機嫌そうな男の声がする。
姉は返事をするけれど、妹は坂の途中で立ち止まったまま動かない。白い家々の屋根の向こうで朝の海が光っている。両側から伸びる岬に抱かれた、穏やかな湾。
妹が沖を指さす。
「ねえ、おかあさん。みさきのむこうには、なにがあるの?」
後ろを歩いていた母親はすぐには答えない。
長い髪が潮風に揺れる。何かを思い出すように海を見て、それから笑う。
「いつか自分の目で確かめればいいわ」
妹は満足そうに頷いて、裸足のまま母親の手を取る。姉も反対側の手を取る。
母親が2人の名前を呼ぶ。
「行きましょう。──セレネ、ミラ」




