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「薔薇とサボテン」

「薔薇とサボテン」


雨上がりの六月の夜は、どこか重たく湿った空気を部屋の隅々にまで残していく。

富子は、お気に入りの色褪せた木綿のブラウスの袖をまくり、和俊が美味しそうに平らげた空のお茶碗を流し台へ運んだ。水を流すと、お醤油と鶏肉の脂の香りが、ぬるい湯気とともにふわりと立ちのぼる。

ちゃぶ台の向こうでは、お下がりの大きすぎるグレーのスウェットを着た和俊が、自分の部屋へ戻るでもなく、じっと自分の手のひらを見つめて座っていた。

その穏やかな横顔を見つめながら、富子の胸の奥には、冷たい澱のような記憶がどうしても蘇ってくる。


親にとって、この世で一番の地獄は、愛する我が子が目の前で何度も命を絶とうとすることだった。

一年前までの我が家は、まさにその地獄の真っ只中にあった。和俊は、何事も型通りでなければ耐えられないアスペルガー症候群。対する富子は、片付けが苦手でじっとしていられない注意欠陥多動性障害(ADHD)。同じ「発達障害」という傘の中にいながら、二人の特性は、南極と北極ほどもかけ離れていた。


富子は家の中にいるのが息苦しくてたまらず、外に出て刺激を得ることに最高のときめきを覚える。二人が並んで自転車で出かけるとき、富子はいつも、わざと知らない路地を曲がろうとした。

「ほら和俊、こっちの道を行ってみようよ。新しいお花が咲いているかもしれないし、見たことのないお店があるかもしれないじゃない」

弾む声で誘う富子に対し、和俊はいつも自転車のハンドルを握りしめたまま、般若のような顔で固まってしまうのだった。

「だめだ。いつもの踏切の前の道を通らなきゃだめだ。違う道は嫌だ、怖いんだ」

「なによ、男のくせにそんな女の腐ったみたいなこといつまでもぐじゅぐじゅ言んじゃないの。ちょっと違う道を走るだけじゃないの」

あの頃の富子は、和俊の言葉を単なる我が儘や、気の弱さだと決めつけ、頭ごなしに叱り飛ばしていた。和俊にとって、自分の決めた手順やルートから外れることが、どれほどの恐怖と不安を伴うものか、想像すらしていなかったのだ。

家の中が大好きな和俊と、外の世界へ飛び出したい富子。それはまるで、水を欲しがる薔薇と、乾燥を好むサボテンを、同じ植木鉢に無理やり植え込んで、同じ量の水を注ぎ続けているようなものだった。

だからこそ、富子には理解できなかった。なぜ和俊が発作を起こし、パニックの果てに何度も自分の首に手をかけ、ベランダへ走るのか、その理由がまったく分からなかったのだ。


限界を迎えた和俊は、十七年間も通い慣れた精神科病院に、家族の同意による「医療保護入院」という形で入ることになった。富子は、そこに入れば国や専門家が和俊をずっと守ってくれるのだと、どこかで信じ切っていた。

だが、現実は甘くなかった。

入院してわずか三ヶ月が経とうとしたある日、主治医から呼び出された富子は、冷徹な事実を告げられたのである。

「お母さん、医療保護入院にはね、法律で定められた『三ヶ月ルール』というものがあるんです。最初の半年間は、三ヶ月ごとに厳格な審査を行って、本当に今も入院治療が必要なのか、退院支援委員会を開いて審議しなければならない。和俊さんの場合、今の状態のままここに長く留まることは、制度上とても難しくなっているんですよ」

「そんな、先生。追い出されるっていうんですか。家に戻っても、私はあの子の発作を止めてやれない。やっと見つけた場所なのに、受診拒否をされたら、私たちはどこへ行けばいいんですか」

白衣の胸元にすがるようにして泣いた富子の声を、病院の白い壁はただ静かに吸い込んでいくだけだった。制度の壁の前に、親の懇願など無力だった。まさか、法律の縛りによって我が子が病院から押し出されるように退院させられるなんて、夢にも思っていなかったのだ。


流し台の前で立ち尽くしていた富子は、ハッと我に返った。和俊がちゃぶ台の端をトントンと規則正しく指で叩いていたからだ。

「和俊、どうしたの。お腹はもういっぱい?」

富子は濡れた手をエプロンで拭きながら、和俊の隣に腰を下ろした。

「うん。炊き込みご飯、すっごく美味しかった。お味噌汁のなめこも、ちゃんと全部食べたよ」

和俊は嬉しそうに微笑んだ。その瞳には、一年前のような濁った絶望の光はどこにもない。

「よかった。ねえ、和俊。母ちゃんね、最近パソコンに向かって、小説を書くようになったでしょう」

「知ってるよ。夜中にパチパチって音が聞こえる。楽しそうだね」

「うん。私ね、小説の中でいろんな登場人物の気持ちを言葉にするようになって、初めて……本当に初めて、和俊の気持ちが少しだけ分かったような気がするの」

富子は、和俊の少しガサガサした大きな手を、そっと両手で包み込んだ。

「それまではね、母ちゃんの価値観だけを和俊に押し付けていた。薔薇とサボテンくらい違うのに、同じように生きろって強制していたんだね。外に出るだけでも不安でいっぱいだった和俊を、母ちゃんは何度も傷つけていた。だからあんなに苦しくて、自分を傷つけるしかなかったんだよね。本当にごめんね」


富子の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちて、和俊の手の甲を濡らした。

和俊は驚いたように瞬きをして、それから自分のもう片方の手で、富子の涙を不器用にしごき取った。

「母ちゃん、泣かないで。僕は、今の生活が一番好きなんだ。あの病院の白い部屋は、三ヶ月で出されて怖かったけど、こうして母ちゃんの作ってくれた五目ご飯を食べて、同じ部屋にいられるから。あのとき病院を追い出されて、本当によかったって思っているよ」

「和俊……」

「明日は、僕の大好きなカレーだよね。じゃがいもは、大きめに切ってね」

四十九歳の息子は、まるで無邪気な子供のような笑顔でそう言った。


窓の外では、いつの間にか雨雲がすっかり去り、満天の星空が板橋の街を優しく見下ろしていた。

あの三ヶ月ルールの冷たい通告に絶望し、目の前が真っ暗になった夜があったからこそ、今、この狭い部屋で二人並んで座っている時間が、どれほど奇跡的なものかが分かる。

富子は涙を拭い、息子の笑顔に向かって力強く頷いた。

「ええ、明日は和俊の大好きな、お肉がホロホロになるまで煮込んだカレーにしましょうね。人参もじゃがいもも、和俊の好きな大きさに切るからね」

「うん、約束だよ」


部屋の中に残る炊き込みご飯の温かい残香が、親子の心を静かに繋いでいた。異なる特性を持つ薔薇とサボテンは、お互いの違いを認め合いながら、この小さなアパートという鉢植えの中で、確かに、そして幸せに寄り添い合って生きている。



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