「生きててよかったね」
「生きててよかったね」
六月の夕暮れだった。
昼過ぎまで容赦なく降っていた雨がようやく上がり、古いアパートの開け放たれた窓からは、雨上がりのすこし湿った匂いを含んだ風が優しく吹き込んできた。
薄暗くなり始めた台所には、そんな湿り気を吹き飛ばすように、豊かな出汁とお醤油の香ばしい香りが心地よく満ちていた。
七十二歳になる富子は、炊飯器の前に立って満足そうに深く頷いた。蓋を開けると、真っ白な湯気がふわりと勢いよく立ち上り、彼女の優しげな目元を包み込んでいく。
目の前に現れたのは、ふっくらと炊き上がったばかりの五目炊き込みご飯だ。今朝から包丁でトントンと細かく刻んだ大根、人参、牛蒡、椎茸、そしてジューシーな鶏肉がこれでもかとたっぷり入っている。鶏肉のコクのある旨味と出汁の香りが一気に鼻腔をくすぐると、富子の口元は自然と緩んでいった。
「うん、うん。彩りも栄養のバランスも完璧ね」
誰も聞いていない台所で、富子は一人嬉しそうに呟いた。
隣の鍋では、なめこと豆腐のお味噌汁が静かにコトコトと湯気を立てている。仕上げに刻んだばかりの青葱をたっぷりと落とし、ピリッとした七味唐辛子をほんの少しだけ振った。
さらに魚焼きグリルを覗けば、鯖の塩焼きがこんがりときつね色に、実に見事に焼けている。皮目から脂が落ちるたびに、じゅうじゅうと小気味よい音が響き、香ばしい匂いがさらに広がっていく。横には瑞々しい大根おろしをたっぷりと添え、小鉢には緑が鮮やかな小松菜の胡麻和えを丁寧に盛り付けた。
狭いアパートの小さな座卓。けれど、今日のご馳走はどこか特別で、少しだけ贅沢だった。
壁の柱時計に目をやると、針は午後六時を指していた。そろそろ、あの足音が帰ってくる頃だ。
そう思ったまさにその瞬間、ガチャリと小気味よい音を立てて玄関のドアが開いた。
「ただいまー!」
聞き慣れた、元気な声。四十九歳になる息子の和俊だった。
「おかえりなさい!」
富子がぱっと笑顔で振り返ると、和俊は靴を脱ぎながら大声を上げた。
「わあ、なんかすごい良い匂いがするぞ! もしかして、炊き込みご飯?」
「当たりー!」
「やった!」
和俊の顔が、子供のようにぱっと明るく弾けた。
その笑顔を見た瞬間、富子の胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。本当に、昔からずっとそうだった。和俊のこの嬉しそうな顔を見るのが、富子は世界で一番好きだった。
幼稚園の遠足の時に持たせた可愛いお弁当、運動会の青空の下で食べた大きなおにぎり、誕生日の夜にリクエストされた特大のハンバーグ。息子の喜ぶ顔が見たくて、ただそれだけのために台所に立ち続けてきた。それは、息子が四十九歳になった今でも、何一つ変わらない親の喜びだった。
洗面所でジャーッと勢いよく手を洗いながら、和俊が声を張り上げる。
「母ちゃん、今日なんかあったの? 宝くじでも当たった?」
「買ってないわよ。ただ私が食べたかったから作ったの」
「最高だな、もう!」
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
居間のちゃぶ台に、出来立ての料理を次々と並べていく。湯気の立つ炊き込みご飯、なめこと豆腐の味噌汁、こんがり焼けた鯖の塩焼きに大根おろし、そして小松菜の胡麻和え。テレビは消したままの、雨上がりの静かな夕暮れ。
富子は冷蔵庫の奥から、冷えて水滴のついた缶ビールを取り出した。キリンの一番搾り。今日は少しだけ奮発したのだ。
「おお!」
和俊の目が、さらに嬉しそうに輝く。
「今日はめっちゃリッチだね、母ちゃん」
「たまにはこんな日があってもいいでしょう?」
「ありがたいねえ。こうして働いていなくても、美味いご飯が食べられるなんてさ」
「本当にね。ありがたいことよ」
二人は手に持った缶を、かるくチリンとぶつけ合った。
「乾杯」
「乾杯」
ぷしゅっ、と小気味よい音が響き、白い泡が弾ける。
ごくりと喉を鳴らして飲み干すビールの冷たさと心地よい苦味が、身体中にしみじみと染み渡っていく。
和俊はさっそく、ほかほかの炊き込みご飯を大きな口で頬張った。そして、瞬時に目を丸くする。
「うまいぞー、これ!」
「でしょー?」
「これ本当にうまい! そこらの店で食べるよりずっとうまいよ!」
「へへへ、言い過ぎよ」
「言い過ぎじゃないって!」
富子は嬉しくてたまらず、声を立てて笑った。一心不乱に夢中で食べている和俊の姿を見るだけで、胸がいっぱいになる。
お味噌汁をすする。なめこのつるりとしたとろみ、お豆腐の優しい甘み、葱の爽やかな香り、そしてピリッと鼻に抜ける七味の刺激。温かい汁が五体を巡り、身体の芯からじんわりと解きほぐされていくようだった。
「おいしいねー」
富子がしみじみと言うと、和俊も悪戯っぽく微笑んで真似をした。
「おいしいねー」
二人で視線を合わせ、えへへ、あははと、自然な笑い声が狭い部屋に木霊する。
その幸福な笑い声の最中、富子の脳裏に、不意に一年前のあの暗闇のような日々がよぎった。
あの頃は、文字通りの地獄だった。
強度行動障害の激しい発作。夜中に家中に響き渡る、終わりの見えない苦しげな叫び声。眠れないまま白んでいく夜空を、何度絶望しながら見上げたことだろう。床に落ちて粉々に砕け散ったお茶碗、壁を激しく叩く音。
発作が収まったあと、激しい自己嫌悪で頭を抱えて泣き崩れる和俊の姿と、どうしてやることもできずにただ一緒に涙を流すしかなかった自分。
もらえる年金だけでは先行きが不安で、老いていく自分の身体も、和俊の将来も、何もかもが見えなかった。すべての現実が、重く冷たくのしかかっていた。
ある嵐の夜、富子は和俊が疲れ果てて眠りについた後、静まり返った台所で一人ポツンと座り込んでいた。
――もう、無理かもしれない。これ以上、この子を苦しめるくらいなら、いっそ二人で一緒に終わろうか。
そんな悍ましい考えが頭をよぎったあの瞬間。怖かった。そんなことを考えてしまう自分自身が。そして何よりも、この最愛の和俊を失ってしまうかもしれない未来の闇が、たまらなく怖かったのだ。
「……母ちゃん?」
和俊の優しい声に、富子ははっと我に返った。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
「ううん、なんでもないのよ」
「なんだよ、なんでもないって言いながら泣いてるじゃん」
和俊に言われて慌てて頬を触ると、いつの間にか温かい涙が、つるつると流れ落ちていた。
「年を取るとね、なんだか涙腺が壊れちゃうのよ」
「ふーん、便利な言い訳だな」
「便利でしょう?」
二人は少し照れくさそうに、けれど優しく笑い合った。
しばらくして、綺麗にお椀を空にした和俊が、ちゃぶ台を見つめながらぽつりと呟いた。
「母ちゃん」
「ん?」
「……生きててよかったね」
富子は持っていた箸をピタリと止めた。
胸の奥が、今度は悲しみではなく、言葉にならない大きな温かさで熱くなる。喉の奥が震えて、富子はただ、溢れそうになる涙を堪えながら、何度も大きく頷いた。
「……うん」
和俊も、すべてを包み込むような優しい笑顔を浮かべた。
「ほんと、生きててよかった」
網戸の向こうから、雨上がりの爽やかな夜風が再び吹き込んできた。
五目炊き込みご飯の香ばしい匂い、お味噌汁の白い湯気、鯖の残り香、そしてビールの心地よい苦味と、お互いを思いやる和俊の笑顔。
古くて狭いアパートの一室。決して裕福ではない暮らし。だけど、あの暗闇をくぐり抜けてきた今の富子にとっては、これ以上ない、この世で一番の宝物だった。
幸せとは、一体何なのだろう。富子にとっては、目の前に最愛の和俊がいて、その子が穏やかに元気に笑っていて、こうして二人で一緒にご飯を食べている、ただそれだけ。それだけで、人間の人生は十分に満たされるのだ。
「ねえ、和俊。明日は何が食べたい?」
富子が少し鼻声を交えながら尋ねると、和俊は腕を組んで真剣な顔で考え込んだ。
「……カレー」
「また? 一週間に一度は言ってるじゃない」
「だって美味いんだもん。またカレーがいい」
「本当に子供なんだから」
「はい、四十九歳児ですから!」
二人は今度こそ、お腹を抱えて大笑いした。
いつの間にか雨雲の切れ間から、燃えるような美しい夕焼けが覗いており、差し込む光が古いアパートの壁を黄金色に温かく染め上げていた。
あの絶望の夜を越えて、今ここに立っているからこそ分かる。今日というありふれた一日が、どれほど奇跡のようで、尊いものかということが。
富子は、一粒の米も残っていない自分の空の茶碗を見つめ、小さく呟いた。
「本当に……生きててよかったね」
和俊は、力強く大きく頷いた。
「うん。本当にそうだね、母ちゃん」
その夜の食卓には、五目炊き込みご飯の優しい香りと、二度と離れることのない親子の温かい笑い声が、いつまでも、いつまでも幸せそうに残っていた。




