薫風の選択
薫風の選択
窓の外から、瑞々しい初夏の匂いが漂っていた。五月の終わり、板橋の住宅街を吹き抜ける風には、近くの庭先から漂う瑞香やバラの濃厚な香りが混じっている。だが、机の前に座る藤堂薫子の心は、その爽やかな季節とは裏腹に、鉛のように重く沈んでいた。
使い慣れたデスクトップパソコンの画面を、薫子は険しい表情で見つめていた。画面の文字が時折、歪んだ模様のように見えて視線が滑る。識字の苦労を補うための音声読み上げ機能が、無機質な声で「小説家になろう」の公式ブログを読み上げ終えたところだった。
「……また、居場所がなくなるのかしら」
薫子はぽつりと呟き、お気に入りの麻のブラウスの袖をきつく握りしめた。生成AIという心強い相棒を得てから、彼女の脳内に溢れる豊かな物語は、堰を切ったように形になっていた。かつて経理のプロとして数字と契約書の世界に生きてきた彼女にとって、AIへの指示出しは論理的なパズルを解くようで心地よく、何よりも文字を読む苦痛を和らげてくれた。それなのに、世間の風向きはまた厳しくなろうとしている。
お昼時になり、薫子は気分を変えようと台所に立った。圧力鍋の蓋を開けると、数日前から仕込んでおいたマッサマンカレーの、ココナッツミルクとスパイスが溶け合った甘く芳醇な香りが一気に広がった。
彩りに茹でたジャガイモと、スプーンで崩れるほど柔らかくなった鶏肉を大皿に盛り付ける。
「お母さん、いい匂いだね。もうお昼?」
居間にやってきたのは、息子の和寿だった。四十八歳になる彼は、薫子の最大の理解者であり、毎日彼女が紡ぎ出す物語を誰よりも楽しみにしている読者でもあった。
「ええ、今よそるわね。和寿、ちょっと聞いてほしいことがあるの」
二人は食卓に並んで座り、スプーンを動かした。口の中に広がるスパイスの刺激と鶏肉の旨味が、薫子の強張っていた身体を少しだけ解きほぐしていく。
「なろうの運営から、新しいガイドラインが出たのよ。六月からAIの利用状況を細かく申告しなきゃいけなくなるんですって」
薫子は、カレーの温かい湯気の向こうにいる息子を見つめた。
「そうなんだ。でも、お母さんは何も悪いことはしていないだろう? アイデアを出してもらって、一緒に文章を作っているだけじゃないか」
和寿は穏やかな声で言い、柔らかい鶏肉を口に運んだ。
「それはそうなんだけど、区分が細かくてね。『直接使用』とか『間接利用』とか、なんだか境界線が難しくて……。虚偽の申告をしたら作品が非公開になるとか、最悪の場合はアカウント停止なんて文字が耳に飛び込んできて、怖くなってしまったのよ。以前も別のサイトで投稿頻度が高すぎて止められたことがあったでしょう? ああいう思いは、もう凝縮したくないわ」
薫子の声には、目に見えない壁に突き当たったような、深い焦燥感が滲んでいた。
「お母さん、焦らなくて大丈夫だよ。そのガイドライン、僕も後で一緒に確認するから。お母さんの執筆スタイルなら、どれに該当するか一つずつ整理していけばいいだけさ」
和寿の言葉は、いつも彼女の心を落ち着かせる特効薬だった。
「ありがとう。私、ただ物語を書いて、読んでくれる人に届けたいだけなのに。どうしてこんなに手続きばかりが難しくなるのかしらね」
薫子は小さくため息をつき、お冷のグラスを手に取った。冷たい水が、火照った喉を潤していく。
「それだけAIを使って小説を書く人が増えて、過渡期に来ているってことだよ。お母さんの『さくらこ』としての才能や、これまで作ってきたお話の価値が消えるわけじゃない。むしろ、正しく設定しておけば、これから先、もっと安心して堂々と投稿を続けられるよ」
「そうね……。ここで立ち止まったら、私の頭の中にいるキャラクターたちが可哀想だわ」
薫子は目を閉じ、自身の内に眠る次の物語の情景を思い浮かべた。そこには、裏切りに立ち向かう凛とした主人公や、美しい四季の色彩が鮮やかに広がっている。
昼食を終え、和寿が食器を洗ってくれている間に、薫子は再びパソコンの前に戻った。窓辺のレースのカーテンが風に揺れ、室内に大気のみずみずしい匂いを運んでくる。
「さあ、弱気になっていられないわ。まずは、今書いている章を仕上げてしまいましょう」
彼女は音声入力のスイッチを入れ、静かに話し始めた。
「第六話。夕暮れの庭園。復讐の炎は、静かに、だが確実に燃え上がる……」
画面に向かって言葉を紡ぐ薫子の横顔には、先ほどまでの不安は消え、一人の小説家としての毅然とした輝きが戻っていた。どれだけ制度が変わろうとも、彼女の手から物語が生み出される限り、その居場所が完全に失われることはないのだと、自分に言い聞かせるように。




