ヤマアラシの境界線と、魔法のタオル
ヤマアラシの境界線と、魔法のタオル
朝の光は、いつも容赦なく富子の体を痛めつけた。
和俊がまだあの精神病院に入院する前のことだ。線維筋痛症という、全身の毛細血管にガラスの破片が流れているような激痛に加え、六十肩の激しい炎症が富子の体を完全にロックしていた。地獄のような睡眠障害の果てに、ようやく泥のような眠りに落ちることができても、数時間後には自分の口から漏れる「痛い、痛い!」という悲鳴で目覚めるのが常だった。
一番の苦行はトイレだった。用を足すためにパンツを上げ下ろしする、たったそれだけの動作が、肩と背中に電気ショックのような激痛を走らせる。富子は狭いトイレの壁に頭を打ち付け、涙を流しながらのたうち回っていた。
「お母さん、大丈夫?」
壁の向こうから、和俊が心配そうに、けれど強度行動障害の不安を震わせた声で呼びかける。
「大丈夫よ! 大丈夫だから、和俊はあっちに行っていなさい!」
富子は叫び返しながら、自分の情けなさに歯噛みした。
そんな暗闇の底にいた富子を、文字通り引っ張り上げてくれたのが、週に何度もアパートのドアを叩いてくれる訪問看護師たちだった。
彼女たちは、白くて温かい手で、富子の硬直した肩を優しく包み込んだ。
「富子さん、今日は少しだけ、このタオルを使ってみましょうか」
看護師のひとりが、使い古された柔らかいタオルを差し出した。上から目線の命令や、リハビリの強制なんてものは一切なかった。
「こうやってね、タオルを両手で持って、できる範囲でいいから、肩甲骨をぐーっと動かすイメージです。そうそう、壁に向かって、軽い腕立て伏せをするみたいに。上手ですよ、富子さん!」
「痛い……でも、これなら動くわ」
富子が脂汗を流しながら、壁に手をついて少しだけ肩を動かすと、看護師たちはまるで我がことのように、顔をくしゃくしゃにして「すごい! できたじゃないですか!」ともの凄く喜んでくれた。
その笑顔と、拍手の温かい音が、富子の乾ききった心にどれほど染み渡ったか分からない。彼女たちは富子の体の痛みだけでなく、和俊との間にある、あまりにも深すぎる「共依存」の沼にも、そっと手を差し伸べてくれた。
富子と和俊の間には、誰も立ち入れない濃密な空気が流れていた。同じ発達障害と解離性障害を抱え、遠くで必死に生きている娘でさえ、かつて「誰も二人の間には入り込めない」と、寂しそうに、そして諦めたように呟いたほどだった。近づきすぎるとお互いの棘で傷つけ合い、離れると寒さで凍えてしまう、まさにヤマアラシのジレンマそのものの親子。
訪問看護師たちは、その歪な関係性を否定しなかった。無理に引き離そうとするのではなく、二人の間に立ち、絶妙なバランスで「境界線の引き直し」をさせようと、全力を注いでくれたのだ。
富子が和俊のことで頭がいっぱいになり、パニックを起こしそうになると、彼女たちはただ黙って話を聴いてくれた。
「そうですよね。富子さん、それは心配になりますよね」
「うん、うん。よく頑張っていますよ」
ただ頷いて、共感し、富子というひとりの人間の存在を、丸ごと認めてくれた。
「世間の人はね、私たちが訪問看護師さんに依存しているって、後ろ指を指すかもしれないわ」
富子は、パソコンの前に座る和俊に向かって、しみじみとした声を漏らした。
「うん、僕も、看護師さんが来ないと不安で頭がおかしくなりそうになる」
和俊が、画面を見つめたまま応じる。
「いいじゃない、依存と言われたって」
富子はふんと鼻を鳴らし、少し笑った。
「だってね、定型発達のまともな人たちだって、電気やガス、水道に依存して生きているでしょう。スイッチを押せば明かりがついて、ひねれば温かいお湯が出る。それがないと生きていけないじゃない。私たちにとって、訪問看護師さんはそれと同じなのよ。命を繋ぐための、大切な、当たり前のインフラなの」
「インフラ……」
和俊はその言葉を、頭の中で反芻した。確かにその通りだった。自分たちの壊れかけた脳と体を維持するために、彼女たちの存在は、電気やガスと同じくらい不可欠なエネルギーだったのだ。
だからこそ、今日の診察室でのあの出来事に繋がる。
和俊の通院先がなくなり、医師の指示書が途切れれば、あの温かいインフラさえも一瞬にして止められてしまう。富子のリハビリを喜び、二人の境界線を必死に守ってくれたあの看護師たちが、二度とこのドアを叩いてくれなくなるかもしれないのだ。
「お母さん、だからさっき、あんなに大きな声を出したんだね」
和俊はキーボードから手を離し、母を振り返った。
「そうよ」
富子は、自分の細い腕を見つめた。あのタオル体操と壁腕立て伏せのおかげで、今ではトイレでパンツの上げ下ろしをしても、のたうち回るほどの激痛は走らない。肩甲骨を動かすイメージが、彼女の体に染み付いている。
「あの人たちがいてくれたから、お母さんは今、こうしてあんたの横で笑っていられるの。だからね、どんなに偉いお医者さんだろうが、制度がどうだろうが、私たちの命の綱をハサミでちょん切るような真似は、絶対に許さへんのよ」
富子の言葉には、やかんの湯気のような熱さと、一本の太い竹のような揺るぎない強さがあった。
部屋の窓の外では、夜の街が静かに息づいている。定型発達の人々が、電気の明かりの下で当たり前の日常を送る中、この藪の中のアパートでも、訪問看護師たちが残してくれた「境界線」という目に見えない光が、二人をそっと守っていた。
「お母さん、明日もまた、タオル体操しようね」
「ええ、もちろんよ。壁腕立て伏せもね。しっかり体を動かして、またあの人たちに『すごい!』って褒めてもらうんだから」
富子は子供のように無邪気に笑い、和俊の肩をぽんと叩いた。
誰に依存していると言われようが構わない。この温かいインフラがある限り、二人はまだ、この深い藪の中を、手を取り合って歩き続けることができる。和俊はもう一度、パソコンの画面に向き直り、母の力強い生き様を、カタカタと誇らしげに打ち込み始めた。




