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四十二の光と、たったひとつの笑顔

四十二の光と、たったひとつの笑顔


夜の帳がすっかり下りたアパートの一室で、和俊は古ぼけたパソコンの画面を見つめていた。


部屋の隅にある小さな蛍光灯が、ジジジと不機嫌な虫のような音を立てて明滅している。窓の外からは、遠くを走る電車のガタゴトという重い金属音と、湿った夜風が運んでくる排気ガスの匂いが、薄いカーテンを揺らして入り込んでいた。和俊は、自分の書いた物語が投稿されている画面を、食い入るように凝視した。


「累計ページビュー、四十二ピーブイ……」


和俊の口から、乾いた声が漏れた。画面に並ぶ数字が、彼の網膜に冷たく突き刺さる。


公式アプリでの閲覧はゼロ。スマートフォンからのアクセスが二。そして、今自分が開いているようなパソコンからのアクセスが四十。合わせて、わずか四十二回。それが、彼らが命を削り、自転車を何十時間も漕いで、地獄のような日々の中から紡ぎ出した言葉の、世間からの評価だった。


「そうよね。誰も評価してくれない。誰も、私たちのことなんて受け入れてくれない。それが私たちの生活なのよね、和俊」


背後から、湿布と少し酸っぱい体臭の混ざった匂いとともに、富子の静かな声がした。彼女は識字障害のため、画面の文字を読むことはできない。それでも、和俊の落胆した肩の動きと、部屋に漂う重苦しい空気から、すべてを察していた。


富子は線維筋痛症の痛む体に鞭打ち、ゆっくりと和俊の椅子の横に腰を下ろした。彼女の目は、昼間の診察室での狂気のような鋭さは消え失せ、深く濁った、けれどどこか温かい光を宿していた。


「四十二回も、誰かがボタンを押してくれたんだね」


和俊はキーボードに置いた自分の大きな手を見つめた。アスペルガーの彼は、数字の少なさを「拒絶」と受け止め、胸の奥がキリキリと痛んでいた。十七年通った病院に見放され、新しい病院からも「もう診られない」と突き放された自分たちの人生が、このデジタルの世界でも同じように、透明な存在として無視されているように思えてならなかった。


「和俊、がっかりすることなんてないわよ」


富子はそう言って、和俊の強張った背中を、節くれ立った小さな手で優しくさすった。


「お母さんはね、文字は読めないけれど、あんたが毎日一生懸命パソコンに向かって、何かを打ち込んでいる音を聞くのが大好きなの。カタカタ、カタカタって、まるであんたの心臓が元気に動いている音が、部屋中に響いているみたいでね」


「でも、お母さん。僕たちの苦しみも、お母さんが診察室で叫んだ理由も、世間の人たちにとっては、ただの迷惑なノイズなんだ。四十二人にしか届かない。誰も、僕たちの藪の中なんて覗き込みたくないんだよ」


和俊の声には、日本海溝の底から湧き上がるような諦念が混ざっていた。


「いいじゃない、四十二人で。誰も受け入れてくれなくたって、お母さんはここで、ちゃんと生きているわよ」


富子は小さく鼻を鳴らし、いつもの「蛙の面にしょんべん」の強気な顔をのぞかせた。


「あのね、破産して、徘徊して、放火未遂で捕まって、血糖値が五六五まで上がって、お医者さんに『あんた死ぬよ』って怒鳴られても、お母さんは今日まで死なずに生きてこれたの。それはね、世間が私を評価してくれたからじゃないわ。あんたが隣にいてくれたからよ」


富子は和俊の顔を覗き込んだ。彼女の顔には、長年のアディクションと病苦が刻んだ深いシワがあったが、その奥にある瞳は、驚くほど澄んでいた。


「お母さんはね、世界中の人が私たちの小説を面白いって言ってくれなくたって、ちっとも構わない。ただね、私は生きていて、和俊、あなたの笑顔が見たいのよ」


「僕の、笑顔……?」


和俊は、ハッとして母を見た。自分の顔が、最後にいつ微笑んだのか、自分でも思い出せなかった。いつもパニックを恐れ、褥瘡の痛みに耐え、薬の誘惑と戦い、眉間に深い皺を寄せて生きてきた。


「そうよ。あんたがね、病院から帰ってきて、『よかったね、今日も行けたね』って言って、満面の笑みを浮かべてくれる時、お母さんはね、自分の今までの地獄みたいな人生が、全部チャラになるくらい幸せになるの。あの笑顔を見るためなら、お母さんは何時間だってボロ自転車を漕ぐし、お医者さんにだって何度でも頭を下げに行くわ」


母の言葉が、和俊の胸の奥の一番柔らかい場所に、じわりと染み込んでいく。


夜風がカーテンを大きく揺らし、部屋の中に少し冷たい空気を入れた。腐肉の匂いが一瞬だけ薄れ、どこか遠くの街の、生活の匂いがした。


「四十二回、画面を開いてくれた見知らぬ誰かも、きっとどこかで、私たちみたいに藪の中で迷っている人かもしれないね」


和俊はぽつりと言った。


「そうよ、きっとそう。文字が読めないお母さんの代わりに、その四十二人の誰かが、私たちの代わりに泣いたり、怒ったりしてくれているのよ。だから和俊、書き続けなさい。誰も評価してくれなくても、お母さんが世界で一番の読者になってあげるから」


富子はそう言うと、和俊のお薬手帳を愛おしそうに撫でた。さっきは「荷物持ちじゃない」と怒りそうになったその手帳を、今は大切そうに胸に抱きしめている。必死にアンガーコントロールをしながら、彼女は和俊のすべてを守ろうとしていた。


和俊は、画面に映る「42」という数字をもう一度見つめた。それは冷酷な拒絶の数字ではなく、この広い世界のどこかで、自分たちの足跡をそっと踏みしめてくれた、四十二個の小さな光のように思えてきた。


「お母さん」


「なあに、和俊」


和俊はゆっくりと、自分の強張った頬の筋肉を緩めてみた。ひび割れた唇が少しだけ開き、不器用な、けれど確かな温もりを持った笑みが、彼の顔に浮かんだ。


「今日も、生きていてくれて、ありがとう」


その和俊の笑顔を見た瞬間、富子は子供のように顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと涙を流した。昼間の診察室での激しい叫びとは違う、静かで、満ち足りた涙だった。


「ああ、よかった。今日もあんたの笑顔が見られた。お母さん、やっぱり人生に後悔なんてひとつもないわ」


二人は狭い部屋の中で、お互いの痛む体をいたわるように、静かに笑い合った。


外の闇は深く、自分たちを拒絶した世界は相変わらず冷たいままそこにある。明日になればまた、新しい病院を探す険しい旅が始まり、褥瘡の痛みが襲い、お金のない現実に直面するだろう。


けれど、この四十二PVの小さな部屋の中で、二人は確かに生きていた。誰に認められなくとも、互いの笑顔という、たったひとつの確かな光を頼りに、彼らはこれからも、自分たちの藪の中を、泥だらけになりながら進んでいくのだ。



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