日本海溝の底で、糸が切れる音
日本海溝の底で、糸が切れる音
十七年通った病院を追われ、あの「空白の一日」に即退院したあとも、和俊はその新しい病院へ外来として通い続けていた。
だが、失われた十七年の歳月はあまりにも重かった。前の病院のようには、主治医との間に心の通ったインフォームド・コンセントなど築けるはずもなかった。診察室での時間は、ただ淡々と、機械的な経過説明と投薬という行為の繰り返しに変質していった。
新しい主治医が悪いわけでは決してない。それはまだ若く、優しそうな目をした医師だった。例えるなら、十七年間すべてを分かち合ってきた大親友と引き離され、新しく入った学校で、まだ名前しか知らないクラスメイトと机を並べているような、そんな埋めようのない距離感だった。
そして、その新しい病院へ丁寧に通えば通うほど、和俊の心の谷は深く、暗く沈んでいった。
狂い始めた歯車は、誰も止められなかった。過剰服薬、オーバードーズ。和俊は一ヶ月の間に、三回も薬を大量に飲み干した。
「和俊さん、今度同じことをやったら、もううちの病院ではあなたを診ることはできませんよ」
若い医師から静かに告げられても、その警告は和俊の耳を素通りした。どれほど母の富子が泣きながらその大きな体を受け止め、抱きしめてくれても、訪問看護師たちが毎日のようにアパートへ駆けつけ、額の汗を拭いながら励ましてくれても、狂気は収まらなかった。
のどがカラカラに渇いた水牛が、泥水を求めて水辺へと猪突猛進するように、和俊は母がほんの少し買い物に出かけた一瞬の隙を突き、薬のシートをバリバリと音を立てて引きちぎり、口の中へ放り込んだ。水で流し込むことさえもどかしく、胃の中へ大量の錠剤を流し込んでしまうのだ。
そのたびに部屋は修羅場と化し、救急車のサイレンが近所に鳴り響いた。富子は、崩れ落ちそうな我が身の輪郭をかろうじて保ちながら、感情を押し殺し、ただ自分にできることを丁寧にやるだけで精一杯だった。
「和俊、和俊、しっかりしなさい」
そう呼びかける富子の脳裏には、暗い夜の底で「親子心中」という四文字が何度も何度も、どす黒い波のように押し寄せていた。このまま二人で、いっそ消えてしまえたらどれだけ楽だろうか。
だが、富子をこの世に繋ぎ止める細い糸があった。
「お母さんには、まだ娘がいるのよ。あの子を残しては逝けない」
富子は心の中で、自分にそう言い聞かせ続けた。和俊と同じように発達障害を抱え、さらに解離性障害という重い荷物を背負いながら、困難な日々を必死に生きている娘がいる。お兄ちゃんとお母さんが二人で勝手に死んでしまったら、娘にどれほどの絶望を与えるか、申し訳なさで胸が張り裂けそうになる。そして、いつか彼女が産むかもしれない、まだ見ぬ孫をこの腕に抱いてから、ありがとう人生と言って死にたい。それが富子の、暗闇の中で灯し続ける淡い希望の灯火だった。
しかし、現実は容赦なく二人を侵食していく。
横たわったまま動けない和俊の背中とお尻には、激しい褥瘡、床ずれができていた。その傷口は皮膚を破り、脂肪を溶かし、ついに骨にまで達していた。和俊の部屋には、常に生臭い、生きながらにして体が腐っていく肉の匂いが漂っていた。
「和俊、痛むかい。ゆっくり横を向こうね」
富子は線維筋痛症の激痛に自分の体をきしませながら、息子の大きな体を必死に転がし、体位交換をした。訪問看護師たちも、その腐肉の匂いに顔をしかめることなく、毎日丁寧に傷口を洗浄し、包帯を巻いてくれた。それでも、和俊の精神は、光の届かない日本海溝の、深い深い海の谷底へと、音もなく吸い込まれていくようだった。
「でもね、和俊。どんなに深い海の底にだって、生きている生物はいるのよね」
富子は、腐肉の匂う部屋でそう呟き、和俊の冷たい手を握りしめていた。
だが、無情にも四度目のオーバードーズが起きた。
「もう、うちの病院では診れません」
病院の宣告は冷酷だった。定型発達の人たちの意志というものは、時に恐ろしいほど強固だ。だめなものは、だめ。規則は規則。医療の現場から、二人は完全に放り出された。
こうして、彼らはついに、行くべき病院さえ失ってしまったのだ。
そして、本当に恐ろしい事態はその後に控えていた。二人が最も頼りにし、命の綱としていた訪問看護師たちは、すべて「医師の指示書」があって初めて動くことができる。自分を指示してくれる医師がいなくなれば、当然のように、その支えも一瞬にして消えてなくなる。目の前が真っ暗になるような、完全な孤立だった。
ただ、唯一の救いがあった。見放されたのは、和俊だけだったのだ。
「富子さんの訪問看護は、まだ生きています。私が指示書を出しますから」
内科の医師は、富子の訪問看護だけは維持してくれた。この地獄のような危機的状況の中、二人の歪な共依存や、必死の頑張りを一番身近で見続け、時に涙を流しながら励まし続けてくれた訪問看護師の存在。それだけが、二人の手元に残された最後の命綱だった。
そして、それこそが、今日のあの激しい口論の理由だったのだ。
新しい精神科の主治医は、和俊を診ないと言った。和俊を拒絶した。それは同時に、富子を支えてくれる訪問看護師の指示書さえも、危うくさせることを意味していた。和俊が通えなくなれば、この連鎖の果てに、二人の生活は完全に崩壊する。
だからこそ、富子は診察室で、あのやかん人間が沸騰するように、喉をちぎらんばかりに叫んだのだ。
「先生、私の話を聞いてくださっていますか!」
あの大きな声は、自分の病気のためではなかった。文字も読めず、お金の管理もできず、病気のデパートと蔑まれても、命の綱である訪問看護を、そして最愛の息子の生きる場所を、絶対に守り抜くという、柳であり竹である母の、最後の一線の叫びだったのだ。
自転車のペダルを漕ぐ母の背中が、夕闇の中でひときわ小さく、そして引き締まって見えた。
「お母さん、ごめんね。僕のせいで、病院がなくなっちゃって」
和俊が後ろから声をかけると、富子は自転車を止め、振り返った。その顔は、夕日に照らされて、不思議なほど穏やかだった。
「何言ってるの、和俊。病院なんてね、また探せばいいのよ。お母さんの訪問看護師さんが、きっと一緒に考えてくれる。私たちはね、日本海溝の底に落ちたって、そこでしぶとく生きていく深海魚なんだから」
富子はそう言って、声を立てて笑った。
和俊の胸の奥で、ドクドクと冷たかった血が、少しだけ温かさを取り戻していくのが分かった。腐肉の匂いも、お尻の褥瘡の痛みも、消えたわけではない。それでも、この柳のような母が前を走る限り、自分たちはまだ、ペダルを回し続けることができる。二人は再び、夜の帳が下りる街へと、ゆっくりと自転車を走らせ始めた。




