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「日本海溝の底で」

「日本海溝の底で」


六月の夜風はどこまでも生温かく、古いアパートの薄いカーテンを不気味に揺らしていた。台所の流し台には、先ほどまで漂っていたカレーの匂いがわずかに残っている。富子は、長年愛用している色褪せた水玉模様のエプロンをつけたまま、パイプ椅子に深く腰掛けていた。

ちゃぶ台の向こうでは、お気に入りの黒いスウェットを着た和俊が、自分の部屋で静かに眠りについている。穏やかな寝息が聞こえてくるたびに、富子の胸の奥には、ほんの一年前までの、あの光さえ届かない暗黒の海のような日々が鮮明に蘇ってくるのだった。


それは、愛する我が子が目の前で崩壊していく姿を、ただ見つめることしかできない地獄だった。和俊のパニックは日を追うごとに激しくなり、大量の薬を一度に飲み干すオーバードーズを繰り返すようになった。そのたびに救急車のけたたましいサイレンが板橋の夜空に響き渡り、富子は着の身着のまま、緊急救命センターの冷たい廊下で一晩中祈り続けるしかなかった。

さらに恐ろしいことに、自傷行為の果てに和俊の身体には、いくつもの大きな褥瘡ができてしまっていた。何度も同じ場所を激しく打ち付け、擦りむいた傷口はみるみるうちに悪化し、やがて肉が腐り、骨にまで達する骨髄炎を引き起こしていたのだ。

包帯を替えるたびに部屋中に広がる、ツンとした膿の嫌な匂い。包丁で抉られるような痛みに耐えかねて、和俊は獣のように叫び、富子は自分の無力さに血が出るほど唇を噛み締めていた。


「お母さん、もうこれ以上、同じような自殺行為を繰り返すなら、うちの病院では面倒を見きれません。次の入院先を探してください」


新しく変わったばかりの精神科病院の白い診察室で、主治医から告げられたその言葉は、富子の心臓を凍りつかせた。

「そんな……先生、見捨てないでください。受診拒否をされたら、私たちはどうすればいいんですか。あの子の主治医の先生がいて、その指示書があるからこそ、訪問看護の看護師さんも毎日家に来てくれているんです。先生に断られたら、あの優しい看護師さんたちの支援まで、すべて一瞬で切れてしまうんですよ!」

富子は必死に、主治医の冷たい机にしがみついて懇願した。しかし、医師は視線をカルテに落としたまま、ただ事務的に首を振るだけだった。

「国の方針なんですよ。今は入院医療に頼るのではなく、地域福祉や訪問看護で支える時代です。うちのような専門病院でも、行動障害のすべてを受け入れるノウハウやスタッフが足りないのが現状なんです」


その瞬間、富子は自分が、光の全く届かない深い深い日本海溝の底へ、真っ逆さまに引きずり込まれていくような恐ろしい感覚に囚われた。

国が言う「地域で支える体制」という綺麗な言葉の裏で、実際の現場では、専門知識のない病院から厄介払いのように押し出され、どこにも行き場をなくした親子が孤立していく。頼みの綱だった訪問看護さえ、医師の受診拒否によって指示書が消えれば、一瞬でゼロになるという理不尽な現実。

暗い夜の部屋で、富子は和俊のただれた皮膚をそっと撫でながら、何度も包丁を握りしめた。これ以上、この子に日本海の冷たい泥を舐めさせるくらいなら、いっそ私の手で……。あの夜の絶望は、思い出すだけで今も身体がガタガタと震え出すほどだった。


カサリ、と小さな音がして、富子はハッと我に返った。

いつの間にか目を覚ました和俊が、部屋の襖をそっと開けて、富子の顔を覗き込んでいた。

「母ちゃん、どうしたの。また難しい顔をして。お腹が空いちゃった?」

和俊は、少し短くなったお下がりのズボンの裾を気にしながら、富子の隣のパイプ椅子にちょこんと腰掛けた。

「ううん、なんでもないのよ。ただ、一年前のことを思い出していただけ」

富子は、少し声を詰まらせながら、和俊のふっくらとした綺麗な手を包み込んだ。骨髄炎で一時は切断さえ覚悟したその手は、今では傷口もすっかり塞がり、温かい血が通っている。

「和俊、あのね。母ちゃんね、あの日本海溝の底にいたとき、もう本当に終わりだと思ってた。でもね、板橋区の障害福祉課や基幹相談支援センターの人たちが、私たちのSOSを必死で拾ってくれたでしょう。病院を追い出された後、専門の発達障害者支援センターや、行動障害に特化した新しい訪問看護のチームを一生懸命に組み直してくれた」

「うん。あの新しい看護師さんたち、僕がパニックになりそうになると、すぐに部屋の明かりを暗くして、僕の大好きなクラシックの音楽をかけてくれるんだ。病院の白い部屋より、ずっと落ち着くよ」

和俊は、本当に嬉しそうに目を細めた。


「そうね。お医者さんの指示書も、地域のクリニックの先生が新しく引き受けてくれて、訪問看護も短期入所のショートステイも、全部繋がった。あの時は、受診拒否をされて世界中から見捨てられたと思ったけれど……今、こうして我が家で、和俊と一緒にカレーを食べて笑っていられるなんて、本当に信じられない。奇跡貯金を全部使い果たしちゃったみたい」

富子の目から、温かい涙が溢れて、水玉のエプロンに次々と小さな染みを作っていった。

和俊は困ったように笑いながら、机の上のティッシュを一枚取って、富子の目元を優しく拭った。

「母ちゃん、奇跡はまだ残っているよ。だって、明日の朝ごはんは、あの美味しかった五目炊き込みご飯の残りをおにぎりにしてくれるんでしょ?」

「ええ、そうね。和俊の大好きな、お醤油がじんわり染みたおにぎりをたくさん握るわね」

「やったあ。僕、母ちゃんのおにぎりが世界で一番好きなんだ」


網戸の向こうから、雨上がりの澄んだ夜風が吹き込み、部屋の中の重苦しい空気を外へと連れ去っていった。

あの日本海溝の底で、暗闇に怯えていた親子は、多くの人々の温かい手によって、ようやく陽の当たる静かな陸地へと引き上げられたのだ。

富子は、和俊の穏やかな笑顔を見つめながら、心の中で何度も、何度も感謝の言葉を呟いていた。

生きていてくれて、本当にありがとう。今日という当たり前の日常を、私たちはこれからも、一歩ずつ、大切に紡いでいく。



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