第2話 消えた刻印見本帳
夜の宝飾局は、昼よりも石の色がよくわかる。
人の声が消えるからだ。蝋燭の揺れと、研磨布が机に擦れる小さな音だけが残る静けさの中で、私は見本帳の切り口を指でなぞった。鋭い刃物で、迷いなく抜かれている。
探すのではなく、隠されたのだ。
台帳棚から祝冠式の搬入記録を出す。北方研磨工房から届いた星彩石は確かに一個、重量も屈折値も規定どおり。けれど今日の宝冠の石は、光の返り方がまったく違う。
「まだ帰っていなかったのか」
低い声に振り返ると、レナードが戸口に立っていた。彼は昔から、私が帳簿を開く姿を見ると苦笑する。真面目すぎて息が詰まる、と。
「見本帳の頁が抜かれています」
「一頁くらい、明日には見つかるだろう。今は余計な波を立てるな」
「祝冠石が偽物なら、明日では遅いです」
私が伝票を差し出すと、彼は見るふりだけして机へ置いた。
「君は昔から細かい。だが今、宮中が必要としているのは祝冠式を無事に終わらせることだ」
「無事に終えたことにして、不正を通すことですか」
その直後、扉が続けて開いた。宝飾局長のベルトラン、伯母のミレイユ、そしてセリーヌまで揃っている。手際がよすぎた。私がここに残ることを、誰かが最初から見越していたみたいに。
「クラリス」局長がため息をつく。「また君は、祝事の前日に騒ぎを起こすのかね」
「騒ぎではありません。祝冠石の再照合をお願いします」
「必要ないわ」伯母が冷たく言った。「セリーヌは王宮宝飾の顔として選ばれたの。帳簿に埋もれるだけのあなたと違って」
私は唇を結んだ。母が亡くなってから、伯母はずっと同じことを言ってきた。職人の娘である私は裏方、社交の場に立てるセリーヌこそ『本物の令嬢』だと。
「では、見本帳の頁を返してください」
私がそう言うと、セリーヌは目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「お姉様、なくしたものを私のせいにするの?」
局長が机を指で叩く。
「もういい。記録係が不安定では困る。クラリス・ノイマン、君には明日付で北方研磨工房への異動を命じる。表向きは監査だ」
「監査?」
「祝冠石の品質に疑義があるのだろう?」レナードが静かに言った。「なら、納入元である北方側を調べればいい」
つまり、すり替えの責任を工房に押しつけるつもりだ。
薄く笑うセリーヌの耳に、小さな青石の耳飾りが揺れていた。その留め具にも、見覚えのある刻みがある。母の工房でしか使わない細い星傷。
ここで声を荒げれば、私は負ける。
私は異動命令書を受け取り、そっと折った。
「わかりました。北方で、正しい石の行方を調べます」
局長たちは、私が折れたと思ったらしい。誰も止めなかった。
でも私は知っている。偽物の輝きは、近くで見れば必ず曇る。
王宮を追い出されるのなら、なおさらその曇りの出所まで辿ってやる。




