第52章| 職場巡視の重要性 <3>アセトン
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間黒さんがカウンターの向こう側に座って、まずは持野さんの施術をすることになった。
「ネイルオフの準備からやっていきますね~」
持野さんはいつも手を綺麗にしている。白くて細い指の先に、長く左右対称に整えられたネイル。
今日は薄い水色に、均一に粉砂糖みたいなラメをまぶしたネイルカラーだった。
間黒さんが持野さんの爪を確かめて提案する。
「あ~。このラメは少しオフするのにお時間かかりそうですね。時間短縮のために、アセトンボウル使っちゃいましょうか」
「ボウルですか?? 」持野さんが訊いた。
「そうそう、昔ながらの裏技ですよ」
間黒さんが後ろを振り返ると、カウンターの後ろの台に、ちょうど手の大きさくらいの入れ物がいくつか並べられていて、それぞれにフタがされていた。その容器を持ってきて、間黒さんが台の上に置く。
「私ね、もともと個人でネイルサロンやっていたんですけど・・・・・・、その頃は私一人しかネイリストがいなかったでしょう。ガッチガチのネイルアートやラメをつけていて、ネイルオフに時間がかかるお客様がいらっしゃると、次のお客様とお約束した施術開始に間に合わないから、そういうときはこのアセトンボウルを使ってたんです・・・・・・」
間黒さんがそう言って容器のフタを取ると、中にはあらかじめ、透明な液体が入れられていた。
マジックインキ・・・・・・有名な油性ペンのインクにも少し似たような、ツンとする刺激臭が鼻をついた。
「この、ボウルに入ってる液体が、『アセトン』・・・・・・」思わず訊いた。
「そうそう。ジェルネイルをオフするための液体です」
間黒さんが続けて言った。
「もう25年くらい前かな、日本でネイルブームが起きました。芸能人がこぞってネイルアートをするようになって、カリスマネイリストも出現して。綺麗な爪にするためにネイルサロンでプロのネイリストに爪を塗ってもらうっていう生活スタイルが一般の人たちにも普及したんですよね。
その頃、爪に色を付けるために使っていたのは『マニキュア』です。マニキュア製品はもとをたどると、自動車塗装用の速乾ラッカーから発展した製品だそうです。でもマニキュアってハゲやすいし、乾かすのにすごく時間がかかってしまうんですよ・・・・・・。綺麗に塗ったのに、完全に乾く前にどこかを触ってしまったらグニャってズレて台無しになったり、層を厚くするのが難しいから、キラキラのストーンを使ったアートをするとポロって取れやすかったりして。
それで、合成樹脂の技術を応用して、液体状のカラー樹脂を指の爪に塗ってから、UVライトを当てて光の力で硬化させるっていう新しいネイルカラー製品が登場して大人気になったんです。これが『ジェルネイル』。
最初にジェルネイルを見たときは、こんな便利で良いものがあるの? って感動しちゃいました。マニキュアと違って固まるまでがすごく短時間で済むんですよ~。しかもジェルネイルはツヤが綺麗でネイルアートのモチもいいんです。世間でもあっという間に広まって・・・・・・。今だとネイルサロンで施術するお客様の8-9割以上は『ジェルネイル希望』です」
「そのジェルネイルを落とすのには、この『アセトン』が必要なんですね・・・・・・」
「そう。私も普段から使ってるよ」持野さんが答えてくれた。
「ええ。ジェルネイルは硬化した樹脂が自爪に密着して張り付いているものですから、剥がすのには樹脂を溶かしてくれる溶剤が必要になります。今の持野さんのように、前のカラーが残っているお客様に施術するときは、まず爪に付いているネイルカラーの表面をヤスリで削り取ります。そのあと爪をアセトン液にしばらく漬けて、溶かされて柔らかくなったジェルの樹脂を取り去ります。そうやってジェルオフしたあとに、また新しい色のジェルを塗っていくっていうのが、塗り直しの基本手順なんです」
「でも、私が普段行っているサロンだと、爪のサイズに小さく切ったコットンにアセトンをしみこませて、爪に載せて、コットンの上からアルミホイルを巻いてしばらく置く、っていうやり方で前のジェルを溶かすんですけど・・・・・・」
持野さんが不安そうな顔で言う。
「そういうやり方が今は主流ですよね。うちも普段のお客様にはその方法でやっています。だけど『裏技』にするとちょっとジェルが溶けるのが早いから、時短になるって、急いでいるお客様には喜ばれるんです。
それにネイリストが自分のネイルをオフするときは、指に一本ずつアルミホイルを巻くのも面倒ですしね・・・・・・スタッフがお互いの手でネイルの練習したり、今みたいな終業後に急いで自分達のネイル直したりするときは大体、ウチの店はこっちでやってるんですよ。あ、ちょっと待っててくださいね・・・・・・」
間黒さんが一度奥に行って、お湯を運んできた。
「ふふ。実はですね、このアセトン液が入った小さいボウルの下の部分に、熱いお湯を入れてあげると・・・・・・」
アセトンが入っていた容器はよく見ると二重構造になっている。
間黒さんがアセトンの入った容器の下段部分にお湯を入れると、アセトンが温められて揮発してきたのか、先ほどのツンとする刺激臭が一段と強くなった。少し頭痛がしてきそうな臭いでクラクラする。
「こうしてアセトンを温めてあげると、浸透が早くなって効果が増して、ネイルのオフにかかる時間が短くなります。バレンタインに手作りチョコレートを作るとき、買ってきた板チョコを湯煎で溶かしたりするじゃないですか? それと同じ感じですね」間黒さんが笑った。
「で、でもこのやり方だと、お店の中にどんどん気化したアセトンが広がっていきませんか? そしたら呼吸する時、お客さんも、ネイリストも、アセトンを吸い込んでしまうのでは・・・・・・」持野さんが焦ったような声を出した。
「えっ? ゲホッ、ゲホゲホ・・・・・・。まぁ、確かにこれって身体に良さそうな臭いではありませんけど・・・・・・、アセトンは私たちにとっては必要不可欠な仕事道具の液体ですし、毎日たくさん使っているうちに、もう臭いにも慣れちゃったっていうか・・・・・・それに、アセトンってそのへんの薬局でもスーパーでも普通に売っているものですから。特別な許可もなくいつでも誰にでも買えるようなものなら、人体にとって危険な物ではないはずですよね?? 」
間黒さんがそう言ったところで、視界の端で鈴木先生が静かにすうっと立ち上がるのが見えた。




