第8話 助けを呼ぶ声は三つ
登録から三週間で、受付の電話に慣れた。
二本同時に鳴るまでは。
朔が一台を取り、俺がもう一台を取ったところで、受信機まで震え始めた。卓上の白い猫だけが、窓から入る朝日に従って寝返りを打った。
「耳は二つしかないんだが」
「私にも二つある」
凛が受信機を取った。冗談なのか業務提案なのか分からなかったので、両方として受け取った。
最初の依頼は、南の観測坑。計測室の加熱事故で一人が閉じ込められ、入口付近に煙が出ている。二つ目は北の井戸区画で、保守員三人が帰りの昇降機を失った。三つ目は工房区の退避要請だった。広い範囲で案内灯が消え、出口がずれ始めているという。
俺は三枚の紙を並べ、そこに残った余白を見た。仕事が増えるのはありがたい。人が危ない理由で増えるのは、喜ぶより先に手を動かす必要がある。
「全部に杭を置けば、いつでも呼べる」
朔が言いかけ、自分で地図の赤い印を数え直した。
「駄目だ。資材路の待機班が、今日も一本使ってる」
「登録できる遠方は三本。現場四つを同時には持てない」
古い作業棚の杭は補強工事の完了後、俺が歩いて回収していた。暁冠の採掘棚の杭も、調査班の退出を確認して解除し、工事班と徒歩で回収済みだ。それでも、資材路を残せば新しく使えるのは二本だった。
新しい能力が帳簿の都合で増えるなら、文さんは毎晩能力を増やしてくれるに違いない。現実には、今朝も交換部品の請求が来ただけだ。
俺はそれぞれの相手へ、同じことを聞いた。人数、呼吸、足元、次に悪くなりそうなもの。凛は北の保守員に、予備空気筒の残量が六時間分だと確認を取った。朔は工房区の連絡係に、人数を分けて確認してもらった。
観測坑の閉じ込められた一人は、今も熱源のそばにいた。
「南へ先に行く。北には通常の昇降救助班を手配。工房区には出口を探して動き回らず、中央の集会所へ集まるよう伝えて」
決めた瞬間、全部へ同じ速さで行けないことがはっきりした。俺は北の保守員へ、列車はすぐ出せないと直接告げた。
「空気の残りは、十分ごとに教えてください。昇降班の到着は四十分後の見込みです」
「分かった。足場の組み方なら、こっちから案内できる」
彼らは、助けを待つだけの人ではなかった。朔が昇降班の連絡先を引き継ぎ、地上側の持ち場を任せる。
文さんは工房区の図面を取りに工房へ向かった。古い換気設備の改修に使った写しがあるという。彼女にも元の図面が必要だった。紙を取りに行く時間は必要だった。
出る前に工房区の連絡係へ、いま南へ向かうことを告げた。向こうで機械の止まる音がした。返事を待つ間が、少し長かった。
「こっちは後回し、ですか」
「現時点では。そちらの集会所に換気があり、床が安定していると聞いています。変化したら、予定を組み替えます」
「じゃあ、見込みだけでも。昼には出られると思ってた人がいて」
「まだ道を歩いていません。昼と約束はできません。三十分後に、こちらから連絡します」
声の向こうで紙をめくる音がした。俺の答えを、誰かへそのまま伝えるために書いているらしい。思いつきの時刻を言わなくてよかった、と掌に汗をかいたまま思った。
「分かりました。作業を止めて、飲み水と防寒具を集めます。こちらはできることをやる」
通信が切れると、凛が時計を見せた。次の連絡時刻に印が入っていた。
「移動中なら、私が繋ぐ。説明は奏の言った通りにする」
「任せる」
その二文字を口にしてから、肩の荷物が軽くなった。実際の重量は変わっていなかった。道具袋は、無情なくらい重かった。
俺と凛は南へ走った。
観測坑では、地上の救助班が搬出路へ送風管を伸ばしていた。煙は熱源の油が焦げたもので、奥へ入るには温度を下げる必要がある。現場の隊員が俺へ図面を差した。
「閉鎖されたのはこの部屋。通路の方は、まだ迷宮境界の外だ」
つまり、ここに扉を開くことはできない。階段を一つ挟んだ奥に迷宮域があるが、そこまで閉じ込められた人を運べるなら、もう入口へも運べる。
「今日は術式なしでやります。裏の点検口は」
「梁が変形して開かない。中からボルトを緩めれば」
凛が点検口の前へしゃがんだ。剣で斬れば速そうに見えたが、内側の人の位置が分からない。彼女は扉を拳で軽く叩いた。
「聞こえる? 壁から離れられる?」
返ってきた打音は、低い位置から二つだった。倒れているが、動けるらしい。俺はしゃがみ、覗き穴へ携帯灯を当てた。
床へ横たわった男が、手で光を遮った。こちらの声は聞こえている。俺は穴へ細いチューブを通し、水を少しずつ流した。飲む分ではなく、扉の熱い継ぎ目を冷やすためだ。
「頭の位置を教えて。そこから離れた角を開ける」
男が掌で床を叩いた。右の隅。凛は左側へ道具を差した。
救助班の油圧器具が来るまでに、俺は外側の固定金具を二つ外した。工具は熱を持ち、手袋越しにもじりじりした。凛は綱を足へ回して踏み、俺が金具を外す間、歪んだ扉が内側へ倒れないよう支える。
「奏、手を替えて。右ばかり使ってる」
「よく見えるな」
「近いから」
確かに近かった。そう気づいた直後、俺は自分の手へ視線を戻した。現場で意識する事項が増えるのは、仕事の邪魔だ。
隙間が指二本から掌の幅になり、送風管の先が入った。男の髪が風で動いた。彼は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
油圧器具をかける時、俺たちは一歩退いた。力のある道具を、持ってきた人へ任せる。扉が鳴り、凛が綱を引いた。熱い金属板が外側へ倒れ、救助班員が中へ入った。
出てきた男は、担架の上で指を一本立てた。
「何かありますか」
俺が聞くと、ひび割れた声がした。
「もう一人、いるかと思って……確認してた。最初から、俺一人だったか」
熱で判断が鈍るまで、部屋を探し続けたらしい。俺は室内を見直し、管理所の入室記録と照合した。誰もいないと、軽く言える場面ではなかった。
「今日はあなた一人です。記録も、中も確認しました」
彼の上げた指が、毛布へ落ちた。
地上へ運ぶのに魔法は要らなかった。普通の担架を、四人で階段へ向ける。俺は脚側を持ち、段差ごとに声をかけた。凛は天井の低いところで、男の顔へ金具が当たらないよう手を添えた。
救護車の扉が閉じると、俺たちは初めて外の風を吸った。潮の匂いがした。普段は服に残るのが厄介なのに、今日はそれだけで悪くない。
北の昇降班から連絡が入った。三人とも吊り上げを開始、一人目は地上へ到着。朔が本人たちの名前を読み合わせ、待っていた所属先へ引き継いでいる。
俺は手袋を外した。指の間まで汗で濡れていた。杭を一本も打っていない。それでも、一人はもう戻っている。
「列車の出ない救助所だ」
「必要なら出す。必要なければ、その方が安い」
凛は水筒を俺へ渡し、自分も別の一本を開けた。合理的で、少し誇らしげに聞こえた。
南の現場を片づけていると、救助班員が使い終えた綱を持ってきた。煤で黒くなった部分を示し、これは次には使わない方がいいと言う。俺はその綱を別の袋へ入れた。
助かったという結果だけを持ち帰れば、道具の方は勝手に治った気になる。そんなことは起きない。交換する物が一つ、洗う物が三つ。帰還の記録へ、使った綱の長さも書き足した。
入口の管理員が、臨時の作業机へ冷たい麦茶を置いてくれた。
「列車の人だと聞いてた。今日は、普通の工具も使うんだね」
「工具の方は、誰でも使い方を覚えられますから」
「誰でも、ね」
彼は外した熱い金具を見て、受け皿へ水を足した。自分も次には手を貸せる、と頷いているようだった。
凛は受け取った麦茶を一度持ち上げ、礼を言った。飲み終わった紙コップを重ねると、俺の分も回収する。あまりに自然で、手を空けてもらったことに半拍遅れて気づいた。
俺は空いた手で、工房区に持っていく荷物札を受け取った。声の届きにくい現場でも、本人を識別する方法を用意しておく。返事の道具は、受信機だけでは足りなかった。
駅へ戻ると、文さんが大きな図面を床へ広げていた。朔はその端に、工房区から届いた名簿を書き足している。北の三人にも帰還の印がついていた。
「工房区は、三十六人。全員、集会所に集まれたそうです」
朔の声に、俺は靴を履いたまま膝をついた。工房区の古い平面図には、今の入口から先へ続く階段がなかった。二年前の変形で、道が組み替わっている。
「ここから先は、俺も歩いてない」
凛が同じ箇所へ指を置いた。知らない道だから行けないのではない。帰る道にするには、先に歩く必要がある。
文さんが予備の帰還石を数えた。三本が、机の上で乾いた音を立てた。
「人数だけなら三便。道と石の両方を揃えてから、予定を言ってちょうだい」
工房区へ通話を繋いだ。連絡係の声は、機械音の向こうで遠かった。
「今から、入口まで行きます。まず皆さんの名前を教えてください」




