第9話 荷物札に名前を書いて
資材路の待機班が退出したのは、昼を少し過ぎてからだった。
俺は現地まで歩き、最後の一人が管理所へ戻った報告を受けて、登録を解除した。基礎から杭を外し、空いた穴に蓋をする。帰り道にも、閉める仕事がある。
袋へ三本揃った時、文さんから工房区の見取り図が届いた。
紙の右上には、二年前の補修時点、と赤で書かれている。今も同じかは、俺が足で確かめるしかない。
向かうのは俺と凛、朔、市の救護担当が一人。朔は脚の装具をつけ、医師に許された範囲を歩く。段差は救護担当に支えてもらい、名簿と受信機を受け持った。
「俺、名簿だけで来てよかったんですか」
「名前を三十六人分、間違えずに運ぶ。それだけで大仕事だ」
凛は俺の道具袋を指した。
「それ、少し軽くしたら」
「必要なものだけだ」
「昨日もそう言って、使わない金具が三つ出てきた」
重複する金具を入口の保管箱へ戻した。三十六人を帰す前に、まず俺が荷物の検査を受けた。
工房区は迷宮の浅層を補強した仕事場で、休憩棟と共用食堂があり、地上の市営市場へ荷物を出している。
鉄扉を越えると、回っているはずのない機械の響きが壁を走った。凛の声が反響に紛れる。代わりに上がった掌を見て、俺は止まった。灯を低くすると、図面にない溝が床を裂き、壁まで続いていた。
工具搬入口の迂回段へ回る。俺は初めての継ぎ目を一つずつ踏み、帰る側の見え方を覚えた。後ろで朔が指を二本立てる。救護担当と二人とも無事、の合図に掌を返した。
集会所で待っていたのは渡部巴さん、三十代の鋳型師で連絡係だった。
「よく来てくれたね。今の道、まだ使えた?」
「人は歩けます。荷物をまとめて運ぶのは無理です」
作業着やエプロンの三十六人が、湯気の消えたやかんを囲んでいた。床には名前のない鞄が並ぶ。
「耳の悪い人も、声を出すのが苦しい人もいるんだ」
巴さんが救護担当を案内する間に、俺と朔は南の管理員にもらった荷物札を広げた。本人と荷物を同じ番号にし、名前の読みも聞く。
高井巌さんは楽器の修理をしている老人だった。耳へ手を当てたので、口元が見える位置にしゃがむ。
「これから、一緒に外へ出ますか」
彼は頷き、鞄と胸を指した。工具も一緒に。同じ番号の札を取っ手へ結んで見せると、口角が上がった。
左手の指を二本しか曲げられない人は人差し指で、文字が苦手な人は鞄の赤い布を絵にして確かめた。
朔は本人の前で丸をつけ、聞き取れなければ二回でも聞き直した。上手に聞こえたふりをしない。その方が、鉛筆の動きは遅くても先へ進んだ。
外を見た凛が、裏の作業路に魔物の足跡があると告げた。巴さんが机を寄せ、棚を防護柵にする。配置はここを使う人が決め、重いところを凛が動かした。
その途中、巴さんが工房ごとの支払い担当表を差し出した。
「共済に入ってない工房もある。まとめて頼んだ私が、全部払うことになる?」
「いま、ここでは決めません。救助と連絡をまとめてくれた人に、全部を押しつける請求にはしない。帰ってから、それぞれ確認します」
所属ごとの欄と控えを作って渡すと、巴さんは背を伸ばした。
「よかった。怖いのは出口だけじゃなくてね」
隣の工房主へ説明しに行く背中を見送ると、朔が二十番の札を二枚並べていた。古い印刷の重複だ。片方に取り消し線を引き、新しい番号を書く。
「間違える前に分かれば、間違いじゃないんですかね」
「直したところまで含めて、仕事の記録だ」
千景さんに教わった通り、元の数字は残した。朔は三十六人を六組に分け、本人と札と名簿を突き合わせ始める。ここに合う大きさを、彼が自分で考えたのだった。
俺は集会所から地下留置線へ繋がる経路の照合を終え、部屋の北側の基礎に一本目を固定した。朔が杭Aの札をつけた。
定員十二人、三便。毎回俺たちも帰り、次は歩いて来ると伝えると、巴さんは地図へ目を落とした。
「今のままなら、明日の午前中までに三便目。ただ、途中の変形はありえます。ここで食事と保温ができることが前提です」
「食材と毛布はある。悪くなったら、すぐ知らせる」
代表たちが薬と寝場所を分担する横で、救護担当は最初の十二人を選んだ。俺は持ち主不明の布袋を掲げた。口から木の匙が覗いている。
若い作業員が掌を上げ、札に三浦恒と書いた。喉を指して手を振る。声は出ないが聞こえている、と同僚が教えた。
同じ番号を袋に結ぶ。匙の柄には未完成の模様があった。彼がこちらへ手を伸ばすまで、中を覗かずに待った。
受け取った三浦さんは、袋を膝に置いて深く息を吐いた。物が戻るだけで、帰る準備ができることもある。
「人を置いてかない人は、物も置けない」
凛が横から言った。
「全財産って顔で見られると、弱い」
「顔を見てるのね」
「見ないと、名前の丸はつけられないからな」
彼女は俺の持っていた予備の札を半分受け取った。指先が触れ、彼女の手が俺より温かいと気づいた。冷えているのは、地下の空気だけが理由ではない気がした。
文さんへ準備完了を伝えた。石は三本、最初の一本を装填して待つ。地上の救護と搬送も手配済みだった。
朔には本人の希望と帰る手段を確かめてから、設備と救護担当のいる集会所に残ってもらった。脚に無理をさせず、巴さんと次の名簿を整える。
「道が変わったら、すぐ知らせて。探しに出ないこと」
「ここにいる人を数えて、連絡するのが俺の仕事です」
札を揃える手を見た。最初に救った時、荷紐を離せなかった手だった。
高井さんが立ち上がり、荷物札を持ってきた。紐が短く、太い鞄の取っ手に結びにくいらしい。長いものへ替えると、彼は自分の分だけでなく隣の人の札も直し始めた。
帰る人の仕事が、ここでも一つ増えた。
俺は最初の十二人の名前を追い、三浦さんの前にしゃがんだ。小さく頷いた彼が、喉を指す。
言わなくてもいい。俺はゆっくり首を横へ振った。




