第4話 帰りの切符は別売りです
料金表の最初の一行を書くのに、一時間かかった。
救助一名につきいくら、と書けば、財布を持っていない人が読んで困る。相談無料、と大きくすれば、相談だけで帰れると思わせる。人間は床より複雑だ。
凛は向かいの椅子で、俺が書き損じる紙を揃えていた。
「まず、緊急時は支払い確認より救助を先にする、と書く」
「それは守る。でも石は有料だ」
「共済と所属先に請求する。そこがない人の基金は、別に用意する。全部を一行で解決しようとしない」
強い。剣を持っていなくても、逃げ場を塞ぐのがうまい。
俺は基本搬送費、現場までの踏査費、護衛費を分けた。見積りの端に、傷病者本人へ現場で支払いを迫らない旨を書く。基金の口座は、まだ開設準備中だった。先に名前だけ立派にならないよう、残高の欄も作った。
受付の扉が開き、松葉杖の朔が顔を出した。
「退院しました。荷物を受け取りに行って、その帰りです」
大きな鞄は地上で待っていた運送屋が運んでくれた。朔は膝に封筒を置き、俺たちの顔を順に見た。
「暁冠、辞めます。もう退職の意思は出しました。脚が治るまで待てって言われたけど、辞めるって書きました」
「誰かにそう言われて決めたのか」
「俺です。救助のあと、荷物の弁償を先に言われたのが、どうしても嫌で」
彼が持ってきた賃金明細へ目を落とした。残業分と、出先で立て替えた運搬代が載っていない。専門の相談窓口の連絡先を渡すと、朔はノートに貼った。
「ここで働けますか。脚が治ったら、運ぶことなら」
「今は、座ってできる受付を一日二時間。賃金を決めて、試行期間を置く。脚は医師の指示が先」
彼は妙に真剣に頷いた。俺はそこで、自分が人を雇う側になりかけていると気づいた。攻撃力の欄がない契約書を探さなくてはいけない。
「こんにちは。記録の確認をお願いできますか」
次の客は、薄い鞄と小型のカメラを持った女性だった。篠原千景と名乗る名刺に、探索記録記者とある。
俺が先にカメラを見たのに気づき、彼女は電源を切って机に置いた。
「今日は取材の同意を伺うところから。お二人の救助映像を、暁冠が公開しています」
画面には、俺たちが北工区から戻った日の入口が映っていた。暁冠の救助隊が帰還を支援、と文字が載っている。映像の端を切ったせいで、柵を上げた市の救助員の袖章が見えなくなっていた。
「これは、誰の映像ですか」
「出所は確認中です。公開映像の時刻と、入口管理所が出した到着時刻が合わない。それだけでは偽装と断定できません。だから原記録を探しています」
千景さんは、確認できた項目にだけ線を引いていた。こちらが怒っているほど、怒らない人が必要なこともある。
朔が膝のノートを開きかけた時、受付の受信機が鳴った。
近くの計測坑で送風機が止まり、点検員が一人戻れていない。入口はまだ歩けるが、熱気が溜まり始めているという。俺は時計と地図を見た。
「凛、十分で出られるか」
「五分。水を二本増やす」
千景さんが椅子から立った。
「同行できますか。通行許可はあります。撮影は指示のある時だけにします」
「通路を塞がない。人を撮る前に本人の許可。危なくなったら、機材より体を先に」
「分かりました」
彼女はカメラを鞄の奥にしまい、代わりに空いた手で救急鞄を持った。
計測坑の手前では、管理員が待っていた。俺は前に点検した経路を歩き直し、迷宮境界内の待避室を帰還点として確認した。今回は狭い扉で一人を抜けばいい。石を使わない代わりに、俺が扉を支えている間の時間を見積もる。
点検員の宮原さんは、倒れた送風管の奥にいた。五十代の男で、濡れたタオルを口元へ当てている。右手の熱傷を水で冷やしていた。
「止める方はできた。戻る方が、ちょっとな」
「そのために来ました」
凛は剣を抜かず、送風管に綱を掛けた。管を切れば、残っている粉塵を撒き散らす。俺が支持具を噛ませ、彼女が管を少しずつ引く。足一本通る隙間を空けて、俺は奥へ入った。
熱気が顔へ貼りつく。先ほどまで床が濡れていると思ったが、金属面の照り返しだった。滑らない位置を選び、杭を基礎の穴へ固定する。
宮原さんが自分の背後へ手を伸ばした。
「計器が一つある。記録が」
「人を先に出します」
「だが、あれがないと原因が」
俺も見た。壁際の黒い箱は持てる大きさだった。ただし、ここからさらに三歩ある。天井の送風管は、凛の腕と綱で止まっていた。
千景さんが入口側から言った。
「時刻と状態は、ここから記録できます。あなたが戻って説明する方が確実です」
宮原さんは彼女を見て、それから空の手を俺へ差し出した。
呼吸と返事を確かめ、扉を開く。凛が管を支える姿勢を変え、俺は宮原さんを待避室へ送った。続いて千景さん、凛。最後に俺が光を抜けた時、肩の上で管の震えが止まった。
誰も箱を取りに戻らなかった。
待避室で宮原さんの手に清潔な布を巻いた。医療の人へ渡すまで、冷やした範囲と時刻をメモする。千景さんは撮影を求めず、ペットボトルの蓋を外して彼の左手へ渡した。
「箱は、冷えてから回収する」
宮原さんが言った。
「俺が覚えてるうちに、数字を書かせてくれ」
紙に向かった背中は、来た時より少しだけ丸くなっていた。ちゃんと戻って、仕事の続きをできる背中だった。
駅へ帰ると、朔が二枚の紙を持って待っていた。依頼主の連絡先と、救護車の到着時刻が、読みやすい字で分けてある。
「帰還待ちの欄も作りました。帰ったら消していいですか」
「消さずに、帰還の時刻を書く。終わったことも残すんだ」
朔は早速、一人の名前の隣に時刻を書いた。その小さな動作を、千景さんが目で追った。
「この記録、元のまま保管してください。修正する時は、元が読めるように」
彼女は自分の記録と照合してから、朔へノートを返した。
千景さんを見送ったあと、受付の電話が鳴った。朔の手が受話器の手前で止まる。俺が視線を向けると、彼は背筋を伸ばして取った。
「南岬の、ええと、帰還の受付です」
名前がまだ決まっていない弊害が出た。相手は宮原さんの所属先で、請求に必要な項目を聞きたいという。朔は料金表を横へ引き寄せ、言葉に詰まりながらも読み上げた。
途中、彼の声が小さくなった。
「それは……はい。確認します」
保留にして俺を見る。依頼したのは管理所だから、所属先へ請求されても困る、と言われたらしい。
「俺から説明する。朔は依頼を受けた時刻の紙を出して」
受話器を受け取り、管理所経由の救助依頼だったことを伝えた。支払い窓口は向こうで確認してもらう。朔には、電話の相手を自分一人で説き伏せる仕事まで頼んでいない。
話が済むと、彼は握っていた鉛筆を机へ置いた。
「お金の話って、怖いですね」
「怖い。だから紙に残して、順番に話す」
「俺、すぐ自分が払えばいいかって思っちゃって」
俺は返事を一拍遅らせた。凛の視線が横顔に刺さったからだ。似たことを考えた経験は、両手で足りない。
「それは受付で決めない。俺も勝手に決めない」
「今、両方書いておく」
凛が契約用紙の余白に線を足した。朔は笑って、初めて背もたれへ深く座った。自分で払わずに終わった最初の電話は、ずいぶん大きな仕事だった。
夕方、黒瀬から電子契約が届いた。暁冠の専属支援職へ戻る条件は、以前の六割の報酬だった。救助の看板と公開記録は、すべて暁冠名義にする、とある。
通話をかけると、相手はすぐに出た。
「真柴。自由業の不安は分かっただろう。席を戻してやる」
「救助は別契約で受けます。専属には戻りません」
「独立して何人雇える。S級の護衛料を、一度でも払ったのか」
俺は机の横に置いた出金帳を開いた。試行日当は支払済みで、凛の受領の印がある。肉まんを一つ追加してもらおう、とは思わなかった。
「払いました。次も払える単価で受けます」
「たかが帰り道に、別料金を取るつもりか」
「そうです。帰りの切符は別売りです」
通話を終えたあと、指の先だけが冷えていた。俺はそれを温かい缶に当てた。凛が向かいへ座り、何も聞かずに料金表の清書を始めた。
「言い方、気に入った?」
「悪くない。けど、切符を持ってない人も乗せるとは書いておいて」
「書く。基金の欄の上に」
その時、工房の班長から送金通知が来た。初営業の代金に、少額の寄付が添えられている。腰が喜んだ分、と通信欄にあった。
俺は準備中だった基金の残高へ、最初の数字を書いた。零でなくなる瞬間は、派手な音がしない。
千景さんから次の連絡が来たのは、料金表を窓へ貼り終えた直後だった。
暁冠が明日、北工区の深層へ大きな隊を入れる。公開予定の経路図には、俺が危険だと伝えた迂回路が、そのまま細い青線で残っていた。
俺は青線を拡大し、隣に鉛筆で、人が待てる場所を三つ書き込んだ。




