第3話 定員十二名、行き先は地上
試運転の朝、文さんは俺に二つの数字を見せた。
十二と、一。前者が乗客の定員、後者が一便につき必要な帰還石の本数だった。どちらも交渉できる雰囲気ではない。
「立てば十三人、石を半分使えば二便。そういう相談は受け付けないから」
「何も言ってません」
「言う顔をしてる」
顔にも経営上の問題があるらしい。
文さんは点検票の最後に署名した。新しいステップ、扉の挟み込み止め、担架固定具。車輪の軸受にまで手が入り、灯号は昨日より少し背筋を伸ばして見えた。
操作盤の下に帰還石を装填する。透明な棒の中心に、淡い琥珀色の線があった。試験用に一本を買い、初営業用の一本は箱に残した。どちらもきっちり請求書つきだ。
「まずは乗務員だけ。空で呼び、帰ってくる。現地側では積まない。荷物を積んで外へ出せる車じゃないのよ」
「帰り専用。うちの売上も、帰ってから発生だな」
凛が狭い乗務区画を見て、肩を寄せる位置を探った。
「乗客が十二。私たちはこっち」
「快適性は期待できない」
「歩くよりはいい」
彼女はもう剣を提げていた。休養明けの体調を聞くと、医師の許可が出た範囲で動くと言った。俺は彼女の代わりに判断せず、予定経路と引き返す条件を紙へ書いた。
試験地点は市が使用を認めた旧資材路だった。地上から通常の入口へ入り、地下の迷宮域を歩く。南岬駅の留置線へ至る点検通路は、昨夜までに俺が往復している。
今日は凛と一緒に、同じ道を逆から辿り直した。床に触れ、天井の継ぎ目を見て、崩れた箇所がないか調べる。地図の線が昨日と同じでも、床まで同じとは限らない。
旧資材路の待避所で、俺は帰還杭を固定した。三本あるうちの一本目だ。文さんの交換したねじが、基礎の受け穴へ素直に入っていく。
「杭、固定。経路、再確認済み」
無線の向こうで文さんが時刻を読み上げた。
父の鋏を握り、《帰路接続》を開いた。いつもの扉の縁が、途中で車輪の円へ引かれた。息を吸う。光の幅が肩を越え、両腕を越えた。
音がした。
古い軸受の、かすかな鳴り。見えない壁の向こうから、深緑の一両が静かに姿を現した。突進するのではなく、すでにそこにあった道が近づいてくるようだった。
灯号は待避所の白線に沿って止まった。誰も乗っていない窓に、俺たちの顔が映っていた。
「幅が保ててる」
凛が言った。俺は自分の指を開いた。扉の時のように関節を締めつける必要がない。盤の安定器が、俺の作った細い接続を抱えている。
試験なので、喜ぶのはまだ半分にした。俺たちは車体の周囲を一周し、足場と扉を確認した。凛が先に乗り、俺が最後に乗務区画へ入る。
「帰る」
それは合言葉ではなく、俺自身の行き先だった。
鋏が盤へ収まり、窓の外の白線がゆっくり後ろへ流れた。速度を上げる間もなく、次に見えたのは南岬駅の携帯灯だった。
車体が止まり、凛の肩が俺の腕に軽く当たった。文さんが外から扉を開ける。石は白く濁り、線を失っていた。
「一便で一本。予定どおり。二人とも、気分は?」
「背もたれまで十センチあった」
「凛ちゃん、設備の感想はあと。吐き気はないのね」
俺は笑ってから、膝へ手を置いた。ちゃんと自分の足で帰ってきている。その当たり前が、今朝は新しかった。
点検票に異常なしの印が並んだ午後、入口管理所から連絡が来た。
旧資材路の隣の回収工区で、足場が片側から外れた。回収班は四人。全員生存、二人は足を負傷。通常搬送だと、吊り上げ設備の到着まで二時間かかるという。
試運転で設置した杭をそのまま使えるか、と聞かれた。俺は地図を見て首を振った。工区の壁向こうへは、まだ歩いていない。
「現場まで見ます。灯号を呼べるかは、それからです」
文さんが二本目の石を装填した。俺は救急鞄と二本目の杭を背負い、凛と徒歩で入口へ向かった。
資材路には、ゴムを焦がした匂いがあった。現地の班長が転落防止の綱を差し出し、壊れた足場の先を示す。四人は対岸の作業棚に寄り、手すりに腰帯を結んでいた。
「俺たちの荷重で落ちるか」
凛が足場へ靴先を置いた。俺は傾いた固定具の裏を見た。金具が破断したのではない。壁の受けごと抜けかけている。
「そのまま渡れない。下の保守段を使う」
足場の一メートル下に、配線用の細い段が続いていた。そこなら俺たちが持ってきた綱で体を支えられる。帰る人をここに通すことはできないが、俺が歩いて接続を作ればいい。
凛が先に降り、濡れた段の苔を靴で払い落とした。俺は彼女の跡を、自分の足で一歩ずつ辿った。左の壁から小さな石が剥がれた時だけ、足を止めた。
「急がなくていい。上は見てる」
剣の鞘が俺の肩を一度叩いた。その合図に従い、次の段へ体重を移した。
対岸の作業棚へ上がると、年配の作業員が俺の道具袋を見た。
「それだけで橋を作るのかい」
「橋より、椅子を持ってくる予定です」
「だったら早く頼む。俺の腰が喜ぶ」
笑う声が四つ揃わない。一人は唇が青く、足首を押さえていた。俺はその人の名前を聞き、受け答えと呼吸を確かめ、動かさずに保温布を巻いた。
作業棚の床板は杭の基礎にならなかった。下の梁まで手を伸ばし、固定金具を二つ使う。揺さぶっても金具は動かなかった。その時、壁の受けがもう一段抜けた。
轟音とともに足場が落ちた。凛は誰もそこへ寄らないよう腕を広げた。剣で斬れる問題ではない。彼女は床の端から四人を離し、重い工具箱を自分の足で押し戻した。
「この位置なら、まだ大丈夫。奏、仕事して」
俺は鋏を握った。新しく歩いた保守段を、靴底の感覚ごと辿り直す。杭が温かくなり、作業棚の向こうに、一両分の光が開いた。
灯号が来た。
誰かが、小さく笑った。線路もない場所に現れた車両を笑ったのか、これで足を下ろせると喜んだのか。どちらでもよかった。
「帰りたい人から、お名前を」
四人分の返事を聞いた。負傷した人は、俺の問いに二度頷いた。凛と俺が担架を運び、乗せ終えてから俺は固定帯を掛けた。一つ締めたつもりにならず、指を入れて抜けないか確かめる。
座席は八つ空いていた。空いているのが惜しいとは、誰も言わなかった。
凛が扉の外を最後に見渡し、車両へ入った。俺も最後に乗り込み、四つの名前をもう一度数えた。
帰還は試験の時と同じくらい短かった。けれど南岬駅の扉の外には、今度は担架を受け取る人たちがいた。文さんが搬入口を開け、地上の救護車へ順番に繋いでいく。
運ばれていく作業員の一人が、俺の袖を掴んだ。
「道具箱も、ある?」
「あなたの足元です。名前、確認してください」
「うん。俺のだ」
彼はようやく袖を離し、目を閉じた。
救護車を見送ってから、俺たちは車内へ戻った。座席の上には、さっきの四人がいた形だけが残っていた。潰れた保温布、泥の跡、手すりに巻いたままの布。
凛が窓を開けようとして、地下だったことを思い出したらしく手を止めた。
「風は入らないのね」
「地上で干す。帰還したら、その先は人力だ」
俺は座面を拭き、彼女は固定帯をほどいた。担架の金具に細い毛糸が引っかかっている。作業員の靴下から出たものだ。爪で取ろうとする凛に、俺は小さな鋏を渡した。
「そっちは普通の鋏?」
「父の形見で毛糸を切ったら、罰が当たりそうだろ」
「使わないで錆びさせる方が、怒られると思う」
もっともだった。ただ、真鍮の切符鋏では毛糸は切れない。俺がそう言うと、彼女は一拍置いて真顔で頷いた。
「じゃあ、適材適所で」
固定帯を戻す位置を二人で相談し、負傷者の手が届く側へ呼び鈴を移した。試験の時には気づかなかったことだ。座る人がいて、初めて分かる不便がある。
文さんは白く濁った石を二本、点検台に並べた。再利用できないものを、できることにはしない。俺は補充の注文書を受け取り、売上からまずその分を取り置いた。
次に帰る人の分を、今日帰った人の代金が用意する。その小さな順番なら、俺にも続けられそうだった。
夕方、班長が受付へ戻ってきた。救助費は所属工房の共済から支払うという。俺は領収書に金額と四人の人数を書き、屋号の欄で手を止めた。
まだ正式な看板はない。真柴奏、と自分の名前を書いた。横で凛が搬送記録に署名する。彼女の字は意外に丸かった。
「字まで斬れると思ってた?」
「俺の偏見を勝手に読むな」
班長は二枚の紙を見比べてから、差し出した封筒を机へ置いた。
「これが帰りの代金だ。足場を直す金とは、分けて払う」
初めて、帰るための仕事に値段がついた。
文さんへ石二本と整備代を払えば、手元に残るのは多くない。俺は小銭を数え、三人分の肉まんを買った。湯気で受付の小さな窓が曇る。
凛は背もたれに体を預け、半分を食べてから言った。
「営業第一号。席は十二、帰ってきた人は四人」
「当面の課題は、肉まんを経費にできるかだな」
窓の外で、遠くの入口警報が一度だけ鳴った。俺は残った領収書を、すぐ取り出せる位置へ置いた。




