第18話 足利を前にして
天正五年、長月。
日光を出てから、もう幾日かが過ぎていた。山を下りるにつれて、風の匂いが変わっていく。松と苔の匂いに代わって、刈り入れの済んだ田の匂いが混じるようになった頃、三人は街道の分かれ道に差し掛かった。
一方はそのまま南へ。もう一方は西へ折れて、足利へと続いている。
道標の前で、綾女がふと足を止めた。
「足利へは、行かないのですか」
素直な問いだった。悪意のない問いほど、答えにくいものはない。
「……行かない」
伊助は道標を見上げもせずに、そう答えた。声はいつも通りだが、握った拳だけが、少し固い。
「西の方が、大きな町へ続くと聞きました。薬の仕入れにも都合がよいのでは」
「……そうじゃな」
「では、なぜ」
「……知り合いが、いた気がする」
伊助は、ぽつりとそう漏らした。噓ではない。だが、本当でもなかった。名も、顔も、深山景久として生きた記憶の中に、はっきりと残っている。足利の老舗薬種問屋。そこを継ぐはずだった息子たち。誰よりも、自分自身のことだ。分かっていて、なお、それを口にする気になれない。「気がする」という言い方に逃げたのは、伊助自身だった。
綾女は、それ以上を問わなかった。ただ、伊助の横顔をじっと見て、小さく頷いた。
「……分かりました。今は、それで良いのでしょう」
悠真は少し離れたところで、黙って南への道を指差した。
「じゃあ、南だな」
それだけだった。理由を聞き返すことも、深く探ることもしない。あっさりとしたその態度に、今度は伊助のほうが拍子抜けする。
「……聞かんのか」
「聞いたところで、お前も自分でよく分かってないんだろ」
悠真はそう言って、荷を担ぎ直した。
「俺にも、似たようなもんがある。帰るはずだった場所とか、置いてきた奴らとか……そういうのは、無理に言葉にすると、余計にこじれる時があるんだよ」
異世界に置いてきた王女や仲間たちの顔が、一瞬だけ悠真の頭をよぎる。もう二度と会えない人々のことを、悠真はまだうまく言葉にできない。だからこそ、伊助の事情を無理に暴くつもりはなかった。
日光での一年のあいだに、いつの間にか根付いていたものがある。相手の秘密を暴こうとせず、「何かある」と分かった上で、そのままにしておく――そういう距離の取り方だった。
「南へ行こう」
伊助は小さく息をついて、そう言った。
半刻ほど歩いたところで、向こうから荷を積んだ一団がやってきた。足利のほうから来たらしい商人たちで、先頭の男が愛想の良い声で話しかけてくる。
「旅のお方かね。いやあ、足利は今、ちょっとした噂で賑わっておりましてな」
「噂、ですか」
悠真が応じると、商人は荷の具合を確かめながら、口だけは止めなかった。
「薬種問屋の話ですよ。大きな老舗でしてね。そこの御隠居が、ある日ふらりと消えてしまって……もう何年も行方知れずだそうで。店の者は今も探しておるとか。神隠しだ、化かされたんだと、あちこちで好き放題に言われておりますわ」
商人は笑いながら、そのまま一団と共に通り過ぎていった。
三人は、しばらく黙って歩いた。
(足利、ねえ……)
悠真は内心で首をひねっていた。歴史の授業はさほど得意ではなかったが、この時代のこの一帯が、後々かなり物騒なことになったという話だけは、記憶の隅に引っかかっている。たしか、味方も敵もめまぐるしく替えては生き延びた国人がいて――名前までは思い出せないが、誰からも信用されない危うい男だった、という評判だけは妙にはっきり覚えていた。
(ああいう話がある土地には、あんまり近づかないほうがいいんだろうな)
だが、それを口にしたところで、今の伊助の耳には入らないだろう。悠真はそのまま、黙って歩き続けることにした。
伊助の歩みが、ほんの少しだけ遅くなっている。それに気づいたのは、悠真だけだった。綾女は特に気にした様子もなく、いつものように前を見て歩いている。
(……消えた御隠居、か)
分かっている。分かっているはずなのに、それが自分のことだという実感は、いつまでも他人事のように遠い。深山景久という名前も、足利という土地も、頭の中にはある。知識として、記憶として、確かにある。だが、それを今ここで誰かに話す勇気は、まだどこにもなかった。
悠真は、それについて何も言わなかった。ただ、隣を歩く伊助の歩幅に、少しだけ合わせた。
日が傾き始めた頃、道端の草むらが、風もないのにざわりと揺れた。
見れば、綾女が通り過ぎたあとの畦道で、秋の草花が彼女のほうへ僅かに傾いている。木陰から小鳥が一羽飛び出し、慌てたように旋回してから、また枝へ戻った。茶色い野兎が顔を出し、きょとんとこちらを見てから、ひょいと草むらへ引っ込む。
「……なあ、伊助」
「……分かっとる。見なかったことにしとけ」
二人が小声でやり取りしている間、綾女本人はまるで気づいていない様子で、ただ真っ直ぐに前を歩いていた。神域で過ごした年月の名残が、いまだにこうして彼女の周りに漂っているらしい。
「本人が気づいとらんのが、一番厄介じゃな」
「山ん中でも思ったけど……あれ絶対、普通じゃないよな」
「お前が言うか」
「伊助にだけは言われたくない」
「何か、仰いましたか?」
不意に綾女が振り返り、二人はぎこちなく顔を見合わせた。
「いや、なんでもない。今日はいい天気だと思っただけじゃ」
「そうそう、天気の話だ」
綾女は少し首を傾げたが、それ以上は追及せず、また前を向いて歩き出した。二人はこっそり息を吐いて、その後を追った。
その夜、三人は道沿いの小さな宿に落ち着いた。
夕餉の膳を前に、悠真が箸を止めて聞いた。
「次の宿場まで、どのくらいだ」
「半日もあれば着く。そこそこの町じゃ。しばらく腰を落ち着けるにはちょうどいい」
「薬草は」
「山が近い。なんとかなる」
「金は」
「……なんとかする」
「なんとかするって、具体的にはどうやって」
「それはこれから考える」
悠真が呆れたように「計画性がないな」と漏らすと、伊助はむっとして言い返した。
「お前に言われたくないわ」
「俺はあるぞ、計画」
「お前の計画は、大悪党か何かを倒すことだけじゃったろう」
「……それは昔の話だ」
「今は」
悠真は少し考えて、「とりあえずお前の言う通りに動く」と答えた。
「それは計画ではなく、丸投げじゃ」
「お二人とも」
綾女が静かに口を挟んだ。
「食べながら話すのは、行儀が悪いですよ」
二人は同時に口を閉じた。
その夜、伊助はしばらく眠れなかった。
天井を見上げながら、昼間の商人の言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
――足利の薬種問屋。消えた御隠居。
分かっている。それが自分のことだと、最初から分かっていた。それでも、それを言葉にして誰かに渡してしまえば、もう後戻りができない気がした。
(……息子たちは、今も探しておるのか)
考えかけて、伊助はそこで思考を止めた。今の自分は、深山景久ではない。坂本屋の伊助だ。この身体で、この顔で、足利へ帰って何を言えるというのか。
いつか、誰かに――綾女や悠真に、あるいは足利の者たちに、それを認めざるを得ない日が来るのかもしれない。その時は――逃げずに向き合う。多分。
まだ「多分」としか言えない自分に、伊助は小さく苦笑して、目を閉じた。
翌朝、三人は宿を出た。
足利へ続く道は、もう背中側にある。伊助は振り返らなかった。
ただ、南へ向かう道端で、名も知らない草が、風もないのにまた小さく揺れていた。
足利の名は、まだ遠くで煙のように揺れているだけだった。だが、その噂だけは、この時すでに別の道を通って、静かに三人の背後へ近づき始めていた。




