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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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週末の魂泥棒

作者: 山田村
掲載日:2026/04/12

挿絵(By みてみん)週末の魂泥棒



 オープンワールドの神ゲー、フォールア〇ト。これを週末にプレイするのが、俺のストレス発散だ。このゲームを知ったのは十年ほど前、動画でたまたま見かけたゲーム紹介がきっかけだった。五年前にセールがあり、思い切って購入してみた。普段ゲームなどほとんどしていなかったが、自宅のPCにインストールして起動した瞬間——これが病みつきになった。いまでいう「秒沼」というやつだ。


 ブラックな会社ライフを送る俺には、平日にゲームをする余裕などない。遅く帰宅してそのまま睡眠を優先する日々が続いていた。


 ある日、いつも通りゲームを始めた。すでに数回クリアしていて、最近はMODを導入し、クエストはせずに拠点のビルドに熱中していた。単純作業をこなしているうちに、部屋の温度のせいもあってか、じわじわと眠気が催してくる。何度かガクッとなりながら、その都度気合を入れ直して画面に集中した。


 ——あれ、また寝てしまったか。


 さあ、続きを……あれ?


 俺が、椅子に座って、PC画面を見ている。


 その「俺」が、こちらに顔を向けた。言葉ではなく、頭の中に直接語りかけてくる。


「お前の体は俺様が頂いた。飽きたら返してやる。それまで待ってろ」


 俺は焦った。現実を受け入れられなかった。


「うそだろ——あり得ない、そんなの——」


「勝手にそう思っていろ」


 苛立ちを滲ませた声が響く。


「折角、男の肉体を得たんだ。男の特権とやらを体験しようと思ってな」


 そう宣言すると、「俺」はひとり言のようにつぶやいた。


「この男の記憶に……面白い存在があるな」


「貴様、なかなか業の深い日常を送っているではないか。ブラック企業に魂を削られながら、ゲームで現実逃避か——愉快な人間だ」


 それから俺の体はスマホを取り出し、ショートメールを打ち始めた。数分後——


「ごめんなさい。急に連絡して……」


 そこから先は、意味をなさない言葉の羅列だった。


「不思議だろう。少し待ってろ、面白いもの見せてやる」


 ——どういうことだ。俺は今、ふわふわと宙を漂っている。重さも痛みもない。体がないとはこういうことか、と間の抜けた感想だけが浮かんだ。


 気づけば俺の体は、渋谷エクセルホテル東急の「エ〇タシオン カフェ」にいた。



   *



「お待たせしました。ご主人様」


 うそだろ——なんで、君が。


 取引先で出会った、強烈な光を放つ女性。オスとしての本能に刷り込まれ、記憶から消えることのない存在——それが俺の客観的な感想だ。しかし、「ご主人様」?



   *



白峰しらみね りん

年齢:27歳

所属:大手広告代理店・クリエイティブ本部 コピーライター(入社5年目)

 部署内では社内一の美人として知られ、ミーティングで発言するだけで周囲が静まり返るほどの存在感を持つ。男性社員からは「白峰さん」と敬称で呼ばれ、女性社員からも憧れの的として慕われている。


 身長168cm、スラリとしたモデル体型。肩甲骨まで伸びたサラサラの黒髪ストレートは、ゆるくまとめると清楚さが倍増する。大きな二重に黒目がちな瞳は透明感があり、視線を向けられるだけでドキッとさせられる。シンプルな白シャツと黒のタイトスカート、あるいは淡いパステルカラーのニットワンピースがよく似合い、ナチュラルなメイクの中で唇だけ少し赤みが強い——そんな「上品な色気」がある。全体の印象はクールビューティー。ただ笑うと目尻が少し下がって、意外と柔らかい雰囲気が顔を覗かせる。


 仕事は超真面目で几帳面。コピーライターとして言葉のセンスが抜群で、クライアントから「白峰さんの言葉なら信頼できる」と言われるほどだ。プライベートでは意外とマイペースでおっとりしており、休日はカフェ巡りや本屋めぐり、ときには一人で美術館へ出かけるのが好きらしい。口数は少ないが一言一言が的確で優しく、後輩の相談に乗るときは「大丈夫、君ならできるよ」と静かに背中を押すタイプだ。


 彼氏なしの理由について、本人はこう語る。


「仕事が楽しくて、誰かと付き合う時間を作ろうと思ったことがないんです。……でも、もし本当に心から惹かれる人が現れたら、ちゃんと向き合いたいとは思っています」


 社内では「白峰さんにアプローチした男性は全員玉砕した」という都市伝説まで生まれていた。



   *



「部屋、取ってあるから」

 そう言うと、彼女は自然な仕草で腕を絡ませてきた。



   *

 


ベッドの上で、「俺」はぽつりと言い放った。



「お前は飽きた」



「いやっ——捨てないで、何でもしますから……!」



   *




 ホテルの部屋を出る直前、「俺の体」がふと足を止めた。


「あ、言い忘れてた」


 頭の中に声が届く。まるで天気予報でも告げるような気軽さで。


「48時間経ったら、お前の体は俺のものになる。正式にな」


 ——え?


「今は仮契約みたいなもんだ。魂が完全に切り離される前に、お前が自分から『諦めろ』と言えば話は早い。言わなければ……まあ、どうなるかはわかるだろ」


 笑いを含んだ声が、頭の奥に響いた。


「親切に教えてくれてありがとう、なんて言えるか!」


 俺は頭の中で怒鳴り返したが、相手には届いていないのか、返事は来なかった。体を持たない存在が叫んでも、それは単なる念の塊でしかない——そんな事実に改めて打ちのめされた。



   *



「48時間て、あと36時間かよ!」


 魂だけになった俺は、宙に浮かびながらその数字を反芻した。


 12時間が経過した頃、俺の体は肉体的に変化していた。元々、虚弱体質でガリガリだったはずなのに、骨の周りにほんの少しだけ肉が増えたように見える。


 俺の体は渋谷の裏通りをゆっくりと歩いていく。行き先はわからない。少し遅れて、白峰さんが後ろをついてきた。


 すると、ガラの悪い男が白峰さんにちょっかいを出し始めた。無視して速足で振り切ろうとしたら、腕を掴んで離さない。


「止めて!」


 彼女が叫んでも、男はニタニタと笑いながら意味不明な外国語で何かを喋り続けている。すると白峰さんは、男の股間に思い切り蹴りを入れた。男は手を放し、股間を押さえながら地面に崩れ落ちた。彼女は足早に俺の体へ近づいてくる。

 

だが、周りに控えていた二人の仲間が激高し、叫びながら白峰さんを追いかけ、俺の体も含めて囲んだ。


「おっさん、全部置いてけ。女もな」


 そう言って殴りかかった瞬間——男の拳が俺の体に触れると、男は硬直して倒れた。それを見た仲間が一瞬怯んだが、ナイフを振りかざした。


 次の瞬間、ナイフを構えたまま男の体が震えだし、みるみる変化していく。

 ——ブタだ。服を着たブタに変身した。


 ブタは奇声を上げてその辺を走り回る。白峰さんの、あんなに驚いた顔は初めて見た。


「……あの、今のは——」


 彼女がかすれた声で呟く。「俺の体」は振り返りもせず、涼しい顔で歩き出す。

「気にするな。大した変化でもない」


 ——大した変化って何だよ。人間がブタになったんだぞ。俺は魂の中で突っ込んだが、もちろん誰にも聞こえない。


 俺の体は何事もなかったように歩きだした。数分後、渋谷の放送局へ入っていく。警備員に職員通用口まで案内され、近くの職員に声をかけると、数分後に男が走ってやって来た。


「私、報道番組の責任者です。ご主人様」


 何をするんだろう、と考えていたら、頭の中に声が届いた。


「貴様、最近の偏向報道に疑問を持っていただろ」


 続けて、


「皆が驚く報道をすれば、視聴率が上がるだろ」


「いい顔をするな。これは貴様の望みでもあるはずだ。長年、歯を食いしばって我慢してきた積み重ねが、今夜一気に解き放たれる」


 ——俺はそんなことを望んでいない、と思いたかった。ただ、頭の奥の、普段は鍵をかけて閉じ込めておく引き出しが、ガタガタと揺れているのも確かだった

 それから数時間後——特別生放送が始まった。民放各社の制作責任者との共同放送で、番組タイトルは「真実」。放送局の実態報告から始まり、外国からの干渉、国会議員との関係、財界との癒着、芸能界の暴露を各社ごとに発表する特番となった。


 当然の結果、国民の怒りが爆発し、視聴率は戦後最高を記録した。俺の体が放送局を出る頃には、大勢の国民が押し寄せ、怒号を発していた。


 国を巻き込んだ大騒ぎは一向に鎮静化しなかった。SNSでは「放送局が目覚めた」「捏造だ」「フェイクだ」と大炎上。政府も閣僚・官僚のスキャンダルが次々と噴出し機能低下、野党も含めて大荒れだった。地方公務員の不正選挙加担者が警察に自首し、司法では買収の告白や教育関係者の暴露が相次いだ。最悪なのは宗教関係の告白で、その内容はえげつない有様だった。


「面白かったか。これで、どれだけ病んだ魂が俺の元に集まるか楽しみだ」


 頭の中に声が届く。事実、告白した後に命を絶った悪人の報告もあった。そして時間を確認すると、残り24時間を切っていた。



   *



 俺の体は渋谷から羽田の深夜便に飛び乗り、ソウルにいた。


 渋谷駅21:30発のJR山手線で品川へ向かい、京急空港線に乗り換えて羽田へ。00:05発の深夜便で、02:30に仁川国際空港着。静まり返った空港からタクシーでソウル市内へ。


 機内でも知れ渡っていたが、日本での騒動を腹を抱えて笑う乗客が多数いた。俺の体は日本人なので絡まれそうなものだったが、不思議と何も起こらなかった。


 ソウルの街ではデジタルサイネージから日本の騒動を伝える映像が流れ、町中——いや、国を挙げて喜んでいた。さすが、国是の国だと感心した。


「貴様の好きなこの国の音楽を聴きに行こうではないか」

 頭の中に声が届く。


 04:00、深夜の東大門市場。眠らない街の卸売ビルではバイヤーたちが飛び交い、大量の服が積み上げられている。08:00、24時間営業のソルロンタンの名店で朝食。煮えたぎる白いスープを、周囲の会社員や夜通し遊んだ若者たちに混ざってかき込む——ただし金は払わず、そのまま移動した。12:00、聖水洞ソンスドン散策。かつての工場地帯が今や世界屈指のポップアップストア激戦区となったその街で、最新トレンドが「発生」する瞬間を目撃した。


 俺の体は平然としていたが、体のない俺の方が興奮していた。


 会場は「高尺スカイドーム」。伝説のコンサートが始まった。


 オープニングアクトは新人男性グループ「X-SOLAエクス・ソラ」。無機質ながら爆発的なダンスパフォーマンスと重低音のトラックが会場を揺らし、前座とは思えない熱量だった。


 メインアクトは K-POP女王「V-RAXヴィ・ラックス」。日本のコンサートの数倍大きいコールの嵐、アーティストとファンが共に戦うような一体感、圧倒的な音圧——俺は完全に大満足だった。


「貴様、これからがメインイベントだ」


 最後の曲前の空き時間を利用して、俺の体はステージへ向かっていく。誰も止めない。


 俺の推しメンが、俺の体に抱きついてきた——。


 ——これは反則だ! 俺の体を使って俺の推しに会うな! 借りた体で勝手に夢を叶えるな! 魂だけの俺は泣き叫んだが、もちろん声は出ない。


 観客は一部始終を固唾を飲んで見守っている。後方の大型ビジョンには拡大映像が映し出された。歓声どころか悲鳴も上がらず、誰一人身動きしない。

 二度目の仰天が訪れたのはその瞬間だった。推しメンの顔が変形し始めている。周りを見渡すと、観客全員が変形していた。

「なんだよ!なんだよー」


 顔に毛が生え、動物のような顔つきに変わっていく。


「貴様が教えてくれた『檀君神話』にならって、この国民を熊の顔にしてやった。どうだ、気に入ったか?」


「止めてくれー!俺はそんなの望んでない!あの可愛いリオン(Rion)が——あり得ないよ、止めてくれー!」


 叫んでも、何も変わらなかった。



   *



 市内はパニック状態だった。とても日本へ帰れる状況ではない。変身していない一部の外国人が逃げるように空港へ向かう中、俺の体はタクシーを捕まえて平然と空港へ向かい、帰国便を巡って言い争う者たちに巻き込まれることもなく、普通に日本行きの飛行機に乗って帰国した。


 日本の空港では熊の顔をした人間が暴れ回り、悲観して倒れているような者もいた。そのとき、


「貴様、おめでとう!あと10秒だ」


 え、10って——マジで?止めてくれ。笑ってるよ、くそっ。



「3、2、1、ゼ……」




***




【 神様 】


 少し休憩したかと思ったら、またどこかへ遊びに行っていたようだね。どこかな?あれ、地表にいるね——また悪戯しているようだな。まったく困った子だ。


「お~い、ラブちゃん、出ておいで」


「あ、ヤバ、見つかった」


「何度言ったら分かるんだ。人の体を借りて現世を遊び歩くのは、ルール違反だよ」


「だってつまらないんだもの。あっちは退屈で退屈で——この男の記憶が面白すぎたのが悪い」


「早くこっちに来なさい」


 男性の肉体から、黒いパグのような者がするりと抜け出して、神の元へ戻っていった。


 はぁ、少し悪戯しすぎですよ。これを元に戻すのが大変なんですから……。





***




 俺は、なぜか羽田のベンチで目が覚めた。周りを見渡すと、空港のようだ。


「なんだよ、この子……」


 隣に白峰 凛が眠っている。おもむろに肩を小突いてみると、目が覚めたようだ。


「ご主人様……」


「「え!」」


「私……ここはどこ?」


 首を傾げる白峰さんに俺は答えた。


「羽田空港」


「なぜ?」


「俺もわからん」


 互いにスマホを確認する。連絡のやり取りと、ホテルの決済履歴が残っていた。おまけに自撮り動画まである。——ヤバい、これは見せられない。


 彼女のスマホも、彼女自身の自撮り動画でパニックになっていた。


「……消去したほうがいいですか、これ」


 白峰さんが画面を伏せながら、ぼそっと言う。


「……見てないふりをする、という選択肢もある」

「大人の判断ですね」


 なぜか妙に息が合った。


「よくはわからないけど、そういう関係だったということだろうか」


「……たぶん、そうだと思います」


 なんとも気まずい雰囲気の中、ひとまず解散して自宅へ帰ることにした。大森のアパートまでタクシーで向かったが——アパートがない。目の前に戸建て住宅が建っている。表札を見ると、俺のフルネーム「目黒 浩二」と書いてあった。試しにアパートの鍵を差し込んだら、開いた。


「なんだよ、気持ち悪い……」


 そう思っていたら、車が止まった。振り返ると、白峰 凛がタクシーから降りてきた。


「え!」


「ここ、私のお家です」


「え!」


 俺はまた声を上げていた。


 気持ちを落ち着かせて「表札見てみて」と言うと、「あれ、なんで?」と彼女が反応する。彼女の持っていた鍵をドアの鍵穴に差し込むと、同じく開いた。


「中に入ってみよう」


 小さく頷く彼女と一緒に玄関をくぐった。中はきれいに整理されていて、北欧風のオープンシェルフには二人の写真が飾ってある。


「え、俺達ここで暮らしてた?」


 彼女も困惑していた。シューズラック、洗面台の歯ブラシ、お揃いの食器、クローゼットの服、互いのパソコン、そしてクイーンサイズのベッド。生活臭はある。だが、暮らした記憶がない。


 俺は記憶があやふやだったが、酷い嫌な思いだけはかすかに残っていた——ただ、それが何なのかはわからない。明日、連休明けに会社へ行けば何か思い出すかもしれないと気分を切り替えた。彼女はキッチンで、以前からそうしていたかのように食事を作り始めた。その夜は、心の整理がつかず別々に眠った。




   *




 会社に出勤して普通に仕事をこなした。特に変わったことはなかったが、以前のようなトゲトゲしさはなく、職場の雰囲気がどことなく柔らかい感じがした。


 トイレから部署に戻る途中、ふと洗面台の鏡で自分の顔を見た。なんか、顔つきが締まっている。腑抜けていた以前の自分とは別人のようだ。


 受付脇の応接ソファーに客が来ていると言われ向かうと——白峰 凛が待っていた。


「わたし、貴方と暮らしていたみたい。後輩の子から『何時の話してるんですか、前からでしょ』って言われたんです。でも記憶が……」


「まあ落ち着いて、外でお茶でもどう?」


 頷く彼女と連れ立って玄関を出ると、スッと自然に腕を絡ませてきた。彼女自身も驚いていたが、習慣の体が先に動いたのだろう。そのまま近くの店でお茶をして、これからのことを話し合い、落ち着いたところでそれぞれ会社に戻った。


 戻ると、受付の女の子がにこにこと笑っていた。馬鹿にした笑いではなかったので気にせず部署に向かう途中、同期の黒磯が剣幕で飛んできた。企画のエースで、同期の出世頭でもある。


「お前という奴は——裏切り者!絶交だ!」


「落ち着け。何が裏切りだ」


「俺が彼女のことを好きなの、知ってただろ。それをお前、いつからだ」


「……しばらく前から、一緒に暮らしてる」


「よくも俺の純真な心を知っていて——もてあそんだな!」


「もてあそんだ覚えはない。そもそも、俺自身もよく覚えていないんだ」


「それが言い訳になると思うなよ!」


 そう叫んで殴りかかってきたが、俺は簡単に躱した。数回の攻防を難なく回避する。(俺自身もびっくりした。)騒ぎを聞きつけて人が集まり、黒磯は格闘系の社員に取り押さえられた。


 後に課長からお小言を言われ、最後に「目黒君、彼女の存在は男性を敵に回すぞ」と、さも自分も敵ですと言わんばかりの止めを刺された。


 自宅に着いたのは9時を回っていた。電気が点いていたので「ただいま」と声をかけると、風呂から「おかえり」と声がした。


 食事を作るからとメールが来ていたので、着替えてから自宅のパソコンを開いた。生活口座を確認して——仰天した。億の桁になっている。


「ギャー!」


 大声を上げたら、風呂上がりの彼女が飛んできた。タオルを体に巻き、髪が濡れたままの状態で、俺の指差すモニターの画面を見る。


 彼女の顔を見たら、目が(¥¥)になっていた。


「こんなに資産があったのね」とニヤニヤしている。


「いや、覚えがないんだが……」


「でも現実にあるんだから、現実でしょう?」


「それはそうだけど……」


「深く考えても、脳細胞が疲弊するだけよ。今夜は美味しいものを食べましょう」


 なんかこの人、意外と肝が据わっている——などと思いながら、俺は口座の残高をもう一度確認した。


 その夜、俺達は実験した。何か思い出せるかもしれない——体の記憶はよみがえったが、交際に至るまでの記憶はまったくだった。もうあまり深く考えてもしょうがないと、その都度思い出していこうと互いに納得して、生活を続けることにした。




   *




 あれから数年。二人は夫婦になり、子供も二人いる。幸せかと聞かれたら、100%幸せと答えるだろう。


「ねえ、またお隣の国が謝罪と賠償って言ってるわよ」


 妻の言葉に「ん?」と何か引っかかるものを感じたが——まあ、平常運転だからと流した。




   *




                  (了)


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