第17話 悠真の選択
同じ朝、神域では。
宗厳が縁側に座り、茶を飲んでいた。悠真は小屋の前で、腰の剣の具合を確かめていた。
「悠真。坂本屋の伊助が、今朝、日光を離れたそうだ。泰信が聞いてきた。お前は、どうする」
宗厳は、それだけ問うた。命令でも、示唆でもなく、ただの問いだった。
悠真は剣から手を離し、しばらく空を見上げた。
(俺は、令和にも異世界にも帰れない。ここが気に入ったわけでもない。ただ、行き場がないだけだ)
神から言われたのは「気ままに生きよ」だった。宗厳たちは衣食住を与えてくれた。泰信は山の常識を教えてくれた。綾女は、縁側に干し柿を置いてくれた。それは、ありがたかった。だが、ここで何かが始まるとは、今も思えなかった。
(行き場がないなら……自分で、行き場を決めればいい)
それは使命ではなかった。命令でもなかった。誰かに頼まれたわけでも、義理があるわけでもなかった。
「宗厳さん。俺、行ってきます」
「そうか」
「また、困ったことがあれば、頼りにしてもいいですか」
宗厳は、ゆっくりと口元を緩ませた。
「御神意は、貴殿に助けを求めよ、と言っている。こちらこそ、頼りにさせてもらう」
「……それ、最初からそういう意味だったんですね」
「そういう意味だ」
———
綾女が、小屋の陰から出てきた。手に、小さな包みを持っていた。
(そういえば、最初の頃は)
悠真がこの神域に転移してすぐの頃、宗厳は綾女を呼び、静かに告げたことがあった。
「綾女。この者の身の回りの世話を、お前に頼みたい」
綾女は少し驚いた顔をした後、珍しくはっきりと頷いた。
「……はい。謹んで」
それからというもの、綾女の様子はどこか機嫌が良かった。誰に言われるでもなく、悠真の着物のほつれを繕い、季節ごとの木の実や干し野菜を、何も言わずに縁側へ置いていくようになった。
綾女は、華やかな巫女ではない。夢や、肌に触れる空気の変化、山のわずかな異変から神意を読み取る、この神域で最も感覚の鋭い修行者だった。その勘は、時に宗厳よりも早く、遠くの出来事を言い当てた。
ある日、様子を見に来ていた伊助が、その甲斐甲斐しさに気づいて、にやりと笑ったことがある。
「悠真、あれはもう女房じゃろう」
「ちげえよ!」
悠真が慌てて否定すると、伊助は愉快そうに笑っていた。あの時のことを思い出すと、今でも少し落ち着かない気分になる。
「……道中、体に気をつけてください」
「ありがとうございます」
そこへ、宗厳が静かな足取りで歩み寄ってきた。
「綾女」
「はい」
「悠真についていってはくれぬか」
綾女は、包みを持つ手を止めた。
「……私が、ですか」
「御神意は、この者を支えよと言っている。だが、その者が日光を離れるという。ならば、支える者もまた、そばにいるべきであろう。泰信では、山を離れれば勘が鈍る。お前ならば、どこにいても、変わらず物事を感じ取れよう」
綾女はしばらく黙っていたが、やがて悠真のほうへ目を向けた。
「……ご迷惑でなければ」
「い、いや……迷惑じゃない。好きにすれば」
悠真が慌てて言うと、綾女はわずかに口元を緩めた。
「では、少しだけ支度をしてまいります」
泰信は、山道の入り口まで見送りに来た。
「お前と山を歩いたのは、悪くなかった」
「俺もです。また、機会があれば」
「ある」
———
山道を下りると、悠真の少し後ろに、荷をまとめた綾女がついてきていた。門前町の外れには、小さな人影が立っていた。
「……遅い」
伊助だった。背負い籠を担ぎ、草鞋の紐を結び直している。
「待ってたのか」
「待ってない。たまたまここにいただけじゃ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「どこへ行くんだ」
「……まだ、決めておらん。ただ、南へ向かう」
「俺も南でいいや。ヒマだし」
「頼んでおらんが、まあいい」
そこまで言って、伊助はようやく悠真の後ろに気づいた。
「……で、そちらは?」
「宗厳さんに、見守り役を頼まれた。しばらく、一緒に来ることになった」
「見守り役、のう」
伊助は綾女をひとしきり眺めてから、悠真ににやりと笑いかけた。
「やっぱり女房じゃったか」
「ちげえよ!」
綾女は涼しい顔で、小さく会釈しただけだった。
「よろしくお願いします」
三人は並んで、日光山の門前を後にした。
一人は、若返った天才薬師。一人は、異世界から返却された、行き場のない勇者。もう一人は、宗厳に見守り役を頼まれ、初めて神域の外へ出た巫女。周囲の人間から見れば、十歳の薬屋見習いと、十六歳の正体不明の若者と、その連れの女――ただそれだけだった。三人は、北関東の次の土地へ向かって歩き始めた。
山の向こうに、秋の空が広がっていた。




