第9話:蝕の氾濫
鐘を三度鳴らした。
火事ではない。第一避難線を放棄する合図だ。
「全員、西へ! 木札の番号順に移動しろ! 荷物は持つな!」
兵の声が夜のノルド村を駆け抜ける。
扉が次々に開き、眠れずにいた村人たちが街道へ出た。老人と子供は荷車へ乗せる。歩ける者は世帯ごとに結んだ縄を握り、暗闇ではぐれないよう進む。
昼間に一度訓練していた。それでも実際の恐怖は人を乱す。
「母さんがいない!」
「家へ戻るな! 巡回班が確認する!」
「家畜を連れていかせてください!」
「命と鶏を量るな。置いていけ!」
俺は広場に立ち、流れが詰まる場所へ兵を回した。
東から音が近づく。
風ではない。無数の乾いた枝を折り続けるような音だ。
村外れの森が内側から崩れた。
黒い靄が地面を舐める。触れた草は色を失って灰になり、大木は幹から腐って根を引き抜かれるように倒れていく。
その残骸が動いた。
鹿だったものが四本の脚で立ち上がる。肉はなく、黒い枝と骨だけで形を保っていた。眼窩の奥に赤い光が灯る。
《尖兵》。
蝕に呑まれた生き物の形骸だ。
ゲーム画面では何百体も倒した雑魚敵だった。実物は腐った森の臭いをまとい、骨を鳴らしてこちらを見る。
怖くないはずがない。
「来ます」
ベルナデッタが一歩前へ出た。
赤い髪を結び、長剣を低く構える。彼女の背後には選抜した二十名の騎士が並んだ。
「第一列、槍を固定! 首ではなく脚を狙え!」
鹿ほどの尖兵が二十を超えて駆け出した。その後ろでは、熊ほどある形骸が黒い木々を押し倒している。
最初の一体をベルナデッタが両断する。横薙ぎの剣が前脚を払い、返す刃で赤い核を砕いた。
黒い体が灰へ変わる。
左右から二体。頭上の屋根から一体。
彼女の剣は止まらない。足を運ぶたび銀の軌道が走り、一撃ごとに尖兵が崩れる。
「右から五!」
「承知!」
騎士たちの槍が脚を止め、ベルナデッタが核だけを斬る。
個々の敵は倒せる。
だが森の奥から際限なく湧いてくる。
「閣下、北の柵にも尖兵!」
黒い靄は用水路に沿って村の北へ回り込んでいた。
「予備隊を北へ! 用水路の水門を落とせ!」
「水では止まりません!」
「流木を詰まらせて進路を絞る。倒す場所をひとつにしろ!」
尖兵を消す力はベルナデッタたちにある。必要なのは二十人の剣を、二十か所へ散らさないことだ。
水門が落ちる。兵が荷車を横倒しにして枝道を塞いだ。回り込んだ尖兵が狭い入口へ集まる。
「槍隊、三歩下がって固定! 突くな、受け止めろ!」
骨の獣が槍衾へぶつかる。兵の靴が土を削った。
ベルナデッタが横から入り、並んだ核を一息に断つ。
「見事な狩り場です、閣下!」
「褒める暇があれば次を斬れ!」
彼女の剣は頼もしい。だからこそ限界も見える。
呼吸は速くなり、踏み込みのたび右足がわずかに遅れる。敵が尽きなければ、いつか剣士のほうが先に止まる。
ギデオンが避難名簿を抱えて駆けてきた。
「南側は全員通過。北側は家畜を連れ出そうとして遅れています」
「家畜は放せ。綱を切れば自分で逃げる」
「鶏を籠ごと抱えた老婆が応じません」
「老婆ごと荷車へ載せろ。鶏もだ」
「資産保全ですね」
「わかっているなら聞くな」
次の瞬間、村の北で屋根がひとつ崩れた。
さらに本体の浸食は戦いを無視して進んでいた。
尖兵の死骸を呑み、柵を呑み、畑へ黒い舌を伸ばす。
「火を放て!」
油を撒いた溝へ火矢が落ちる。
炎の壁が上がり、尖兵が足を止めた。黒い靄も一瞬だけ揺らぐ。
次の瞬間、炎そのものが黒く染まった。
熱を失い、煤の塊になって崩れる。
「効いていません!」
「わかっている!」
原作でも通常攻撃で蝕は止まらない。勇者の聖剣か、鎮めの儀の力が必要だ。
それでも時間は稼げると思っていた。
甘かった。
黒い先端が第一避難線の白杭へ届く。杭は音もなく朽ち、地面へ沈んだ。
「第一線、突破されました!」
「第二線へ移れ! 戦闘班は後退しながら尖兵だけを減らせ!」
村民の最後尾が西の街道へ入る。俺は名簿を持つ兵を捕まえた。
第一線まで二百八十息だった訓練が、今夜は四百を越えている。暗闇と恐怖、持ち出そうとする家財が人の足を遅くした。
それでも訓練をしなければ倍はかかった。
色紐を握った子供たちは同じ組の大人から離れず、字の読めない老人も避難図の矢印を覚えている。昼間に打った杭が夜道の輪郭を作っていた。
準備は奇跡を起こさない。
ただ一人ずつ、生存する確率を積み上げる。
前世でも今世でも、それが俺にできる仕事だった。
だから最後まで数える。一人も名簿から零さない。
「黄色の組が一人足りません!」
「家の位置を名簿で確認しろ。巡回班二名をつける!」
「未確認は」
「十二名! 東端の三世帯です!」
街道を進む最後尾は全員確認済みだ。未確認の十二名だけが村内に残っている。
「巡回班を戻す。俺も行く」
「閣下がですか?」
「領主が最後に逃げるのは、資産の検分のためだ」
本音を言い換える余裕すらなかった。
東端の家々へ走る。既に庭の草が黒ずみ始めている。
一軒目は空だった。二軒目では足を痛めた老婆を兵が背負う。三軒目の床下から子供が二人見つかった。恐怖で隠れたらしい。
「母ちゃんは?」
「先に行っている。走れるか」
「妹は走れない」
「なら俺が運ぶ」
小さな少女を抱き上げる。熱がある。兄の手を兵に握らせ、街道へ戻った。
背後で家が崩れる。
浸食の速度が上がっていた。
「閣下、左から!」
兵の警告と同時に狼の尖兵が飛ぶ。
少女を抱えたまま身を捻った。爪が外套を裂く。
剣を抜くより先に銀光が走った。
尖兵の首が落ちる。
「御無事ですか!」
ベルナデッタだ。鎧には黒い傷が増え、息も乱れている。
「戦線はどうした」
「副長に任せました。主君を失えば守る戦線もありません」
「まだ十二人いる」
「ならば全員連れ戻します」
言葉どおり彼女は尖兵を斬り開いた。
だが一人で守れる範囲には限界がある。
第二避難線の石橋が見えたところで、前方から悲鳴が上がった。
名簿では確認済みだった最後尾の荷車が、溝へ車輪を落としている。乗っているのは老人六人と子供たちだ。押す男たちも疲労で足が動かない。
「馬を外せ! 車体を直接持ち上げろ!」
兵を走らせる。
黒い靄はもう背後三十歩に迫っていた。
ベルナデッタが一人で間へ立つ。
「ここは通しません」
尖兵が押し寄せる。
剣が閃く。一体。二体。五体。
彼女の足元へ灰が積もる。
十体目を斬ったとき、右肩へ黒い角が掠った。鎧が割れ、血が飛ぶ。
それでも下がらない。
「ベルナデッタ、退け!」
「まだ斬れます!」
問題は尖兵ではない。
本体の浸食が彼女の足元まで迫っている。剣で斬っても黒い地面は止まらない。
荷車はまだ動かない。
子供が泣いている。老人の一人が降りようとして転んだ。
計算する。
浸食の速度。石橋までの距離。荷車を持ち上げる時間。
間に合わない。
兵も知恵も準備も使った。二段の避難線も機能した。だから千人近い村民をここまで逃がせた。
それでも最後の数十歩が足りない。
俺の脳裏に原作知識が並ぶ。
蝕を押し返せる手札は一枚しかない。
《魔人化》。
簒奪の誓約を全身へ展開し、勇者級の力を得る中ボス形態。原作でヴァイスが使い、勇者一行を半壊させた力だ。
代償も知っている。
発動するたび体の一部を持っていかれる。
治癒魔法では戻らない。
俺は抱えていた少女を兄へ預けた。
「橋まで走れ」
「おじちゃんは?」
「俺の土地を検分してから行く」
子供たちを兵へ押しつけ、足を止める。
左胸の紋章が誘うように熱い。
「閣下?」
ベルナデッタが振り返った。
「前を向け。村民を橋へ送れ」
「しかし――」
「命令だ」
俺は黒い靄へ向き直る。
「ベルナデッタ。目を瞑っていろ」
胸の紋章が赤く燃えた。
「これは、お前が見なくていい俺だ」




