第10話:左眼の値段
黒い靄が足元へ迫る。
腐った土の臭いが喉を焼いた。
背後では兵が荷車を持ち上げている。老人と子供たちが石橋へ渡り始めた。
あと百息。
それだけあればいい。
左胸へ手を当てる。
茨と王冠の紋章が服越しに脈打った。
書庫で見た契約文書の写し。末尾にあった、黒く滲んで読めない一行。その中身が、いまは体の内側から読める。誓約が待っていたのはこれだ。
魔人化の発動には、代価とする部位を自分で選び、宣言しなければならない。
指一本や皮膚の一片では契約に受理されない。独立したひとつの身体機能を、丸ごと差し出す必要がある。
部位の大小で出力は変わらない。宣言すれば魔人の力はすべて開く。代わりに一息しか使わなくても、選んだ機能は解除時に残らず奪われる。
原作のヴァイスは最後の戦いで寿命を差し出したと設定資料にある。何年を奪われたのかは書かれていなかった。
必要なのは蝕を退けたあとも動ける体だ。
脚を失えば村へ戻れない。腕を失えばこの場で戦えない。
眼なら片方で済む。
そう考えられる自分が嫌になる。
生身の体を道具のように値踏みしている。
それでも選ぶしかない。
俺は息を吐いた。
「左眼をくれてやる」
世界から音が消えた。
次の瞬間、心臓が爆発したように脈打つ。
赤い紋章が胸から首へ、首から顔へ走った。黒い茨の文様が両腕と背中を覆い、指先まで燃える。
体が内側から作り替えられる。
骨が軋み、視線が高くなる。黒い魔力が外套を持ち上げ、背後で翼のように広がった。
左眼の視界だけが赤く染まる。
黒い靄の中に無数の脈が見えた。
蝕は一枚の壁ではない。地脈から魔力を吸い上げ、枝分かれしながら前進しており、尖兵の核もすべて黒い糸で本体へつながっていた。
これが原作の中ボス《魔人ヴァイス》の視界か。
この姿は、発動時に定めた目的を果たすか、俺自身が解除を望むまで続く。力を止めても代価は戻らない。
水滴が止まって見える。
尖兵の脚が地面を蹴る前に、次の軌道まで理解できた。全身へ流れ込む力は圧倒的で、恐怖より先に万能感が押し寄せる。
今なら王都の城壁すら壊せる。
そんな確信が根拠もなく湧いた。
危険なのは代償だけではない。この力を使う自分が、力に相応しい存在だと思い始めることだ。
原作のヴァイスも最初は何かを守るため、誓約を結んだのかもしれない。だが最後には王座だけを見ていた。
背後から子供の泣き声が聞こえた。
何のために立っているかを思い出すには、それで十分だった。
勇者一行を苦しめた力。
いまは人を殺すためではなく、後ろの命を生かすために使う。
尖兵が一斉に飛びかかった。
右腕を振る。
剣は抜いていない。
ただの一薙ぎで黒い衝撃が地面を走り、数十体の尖兵をまとめて砕いた。赤い核が連鎖して弾け、灰の波へ変わる。
兵たちの息を呑む音が聞こえた。
ベルナデッタだけが剣を構えたまま俺を見ている。その瞳に怯えはなく、痛みを堪えるような色があった。
「見るなと言った」
「主君が差し出すものから目を逸らす騎士にはなれません」
「なら村民を見ろ。俺ではなく、生きている者を守れ」
彼女は一度だけ奥歯を噛み、荷車の横へ下がった。
「総員、閣下に背を向けなさい! 橋を渡る者だけを見ろ!」
兵たちは戸惑いながら従う。
見世物ではない。崇められるための犠牲でもない。必要な代価を必要な場所で払うだけだ。
「橋を渡れ!」
俺の声が夜明け前の空気を揺らす。
荷車が動き出した。
蝕本体が新たな尖兵を作ろうと蠢く。俺には黒い脈の集まる場所が見えている。
踏み込んだ。
一歩で浸食の中央へ入る。
靴底から這い上がる黒い魔力を、全身の紋章が焼いた。皮膚の上で赤と黒の火花が散る。
右手を地面へ突き立てた。
「俺の領地へ勝手に入るな」
赤い光が地割れのように広がった。
黒い脈を一本ずつ焼き切る。地面が震え、森の奥で巨大な何かが身を捩った。
蝕には意思がないはずだ。
それでも悲鳴に似た音が響く。
浸食の先端が止まった。
さらに魔力を流す。
一歩。
黒い靄が後退する。
二歩。
朽ちた畑の境界まで押し戻す。
左眼が焼けるように熱い。視界の赤が白へ近づき、輪郭が崩れ始める。
代価を取り立てる時が近い。
「閣下、もう十分です!」
ベルナデッタの声が背後から届く。
目を瞑れと命じたのに、彼女は見ていた。
だがまだ足りない。
ここで止めれば明日また村へ届く。せめて森の観測線より向こうまで押し返す。
両手を重ね、黒い脈の束を掴む。
実体などないはずの魔力が指の中で暴れた。
「これは俺の獲物だ」
紋章が最大まで輝く。
「蝕ごときが簒奪公から奪えると思うな!」
握り潰した。
夜が赤く染まる。
森を覆っていた黒い靄が中央から裂け、尖兵は糸を切られた人形のように崩れ、浸食の先端が丘の向こうまで退いていく。
朝日が地平線から差した。
救われた村と石橋が金色に照らされる。
勝った。
そう思った瞬間、全身の紋章が左眼へ集まった。
熱が一点へ凝縮する。
痛みはなかった。
代わりに光が消えた。
眼球を内側から引き抜かれる感覚が一瞬だけあった。
反射的に顔を押さえる。指先に血はつかない。傷口もない。ただ左の瞼の奥から、そこにあったはずの重みが消えていた。
世界の左半分が闇へ落ちる。
距離感を失い、膝をついた。地面へ手を伸ばしても位置が合わず、指が空を掻く。
「閣下!」
ベルナデッタが駆け寄り、肩を抱く。
「目を瞑れと言っただろう」
「御命令に背きました。罰は首で」
声が震えていた。
「そんな罰はない」
「ですが、御姿を……御代価を見届けずには」
彼女の右肩からも血が流れている。それでも俺を支える腕は強かった。
「村民は」
「全員、橋を渡りました」
「そうか」
それなら左眼ひとつで足りた。
足りたと思うほかない。
石橋の向こうから村長が戻ってきた。兵に止められても聞かず、俺の前へ膝をつく。
「なぜ……なぜ我らのために、そこまで」
胸の紋章は小さく戻ったが、誓約は生きている。
俺は左側の見えない老人へ顔を向けた。
「担保を焼かれては困るからだ」
「たんぽ……」
「村も畑も貴様らも俺の資産だ。眼ひとつで守れるなら安い」
安いはずがない。
左に立つ村長の位置が声だけでは掴めない。顔を向けたつもりでも少しずれ、相手の肩越しを見る形になる。
本を読む。階段を下りる。誰かが投げた物を受け取る。リーゼが左から駆け寄ってきても声を聞くまで気づけない。
代償は宣言した一瞬で終わらない。これから先の毎日に残る。
だが村長も周囲の兵も、誰も反論しなかった。
信じていない顔をしている。
やがて村長は額を地面へつけた。
「この命、必ずや閣下のために働かせていただきます」
違う。自分のために生きろ。
言えない俺は黙って立ち上がった。
右眼だけで見る朝日は眩しい。
左側にあるはずの村は見えない。人々の姿も、救った畑も、半分だけ闇の中だった。
少女が一人、俺の右手へ野花を押しつけた。先ほど荷車で泣いていた子だ。
「眼のお礼」
「代金には足りん」
「もっと摘んでくる」
「そういう意味ではない。病人は寝ていろ」
少女は笑って橋の向こうへ戻った。
白い花を持った手だけが右眼に映る。左に咲いているはずの残りは、もう数えられなかった。
城へ戻る道は長く感じた。
途中の野営で顔を洗い、水面に映る自分を見た。
左の瞼は落ち窪み、その周囲へ赤い紋章の痕が細く残っている。壁に飾られていた瓦版の悪相へ、原作の魔人ヴァイスが一歩近づいた。
勝つたびに討伐される姿へ近づく。
皮肉に笑おうとしたが、口元はうまく動かなかった。
それに、と濡れた顔を拭いながら思う。
なぜ、効いた。
原作でも通常攻撃で蝕は止まらない。勇者の聖剣か、鎮めの儀の力だけが届くはずだ。聖剣でも儀式でもない俺の力が、なぜ通った。
思い当たる符合はひとつしかない。簒奪宣言の夕べ、東の靄は胸の紋章と呼応するように脈打っていた。
誓約と蝕は、同じ何かでできているのか。
だとすれば俺は、蝕を退けるたびに、蝕へ近い何かになっていくことになる。
答えはない。左の眼窩の奥が、微かに疼いただけだった。
距離感を誤って馬の鐙を二度外し、差し出された水筒も一度掴み損ねた。誰も何も言わない。
リーゼにどう説明するか考えたが、答えは出なかった。
三日後、城門をくぐる。
そこに見知らぬ女が立っていた。
薄紫の髪。白衣の裾には薬品の染み。片手に銀色の器具箱を持ち、金色の瞳で俺の左眼を見つめている。
「はじめまして、簒奪公」
女は頬を紅潮させた。
「……ああ、素敵。もう壊れてる」




