第44話:進路変更
領内全ての鐘が同時に鳴った。
北塔、南街道、ハーゼ中継所、メルカ観測所。蝕の前兆を知らせる三連鐘だ。
「誤報では?」
「四方向が同時に誤る確率はありません」
シュカが報告紙を重ねる。
北塔は空の黒点が前日比で三倍。南街道は方位磁針が王都でなく東辺を指した。ハーゼでは封印した井戸の水位が逆流し、メルカの森では魔物が西へ逃げ始めている。
どれかひとつなら局地的な異変だ。空、磁針、水、獣。異なる四つの観測が同じ中心を示している。
「中心座標の誤差は」
「領都から半径六十里。誤差ではなく全域指定です」
ひとつの村を犠牲にする座標ではない。ノルドもハーゼもメルカも、俺が征服して避難路をつないだ土地をまとめて呑む範囲だった。
机の端で通信石が光る。北塔の鐘守からだ。
『観測を継続する。退避命令が出るまで塔を離れない』
「今すぐ交代制にしろ。観測員を一人も使い潰すな」
言ってから胸の灼けへ備える。
「今後も空を見張らせる俺の資産だ」
遅れて悪役の理由を足す。義声帯の抑揚まで半呼吸遅れた。
東西南北の空で黒い靄が濃くなり、魔力脈の流れが全てレーゲンハルト領へ向いている。
ギデオンが儀式記録の座標式と照合した。
「鎮めの儀です」
「逸らし先は」
答えを聞く前からわかっている。
「当領全域」
原作で五年後に俺の領地を呑むはずだった蝕が、今こちらへ向けられた。
天災ではない。
誰かが座標を書き、人の手で進路を変えた人災だ。
『お前の領も選ばれる日が来る』
グレゴールの言葉が蘇る。
「到達まで」
「外縁の到達は最短で三十日。中心流は四十五日前後」
原本にある過去二十件の前兆濃度と到達日を、現在の観測値へ重ねた結果だ。ハーゼ襲来時の四倍の濃度が既に外縁で計測されている。楽観できる誤差は二日もない。
ギデオンは二十本の曲線を地図の横へ並べた。前兆が倍になるまでの日数、魔力脈へ触れてから加速する割合、最初の魔物が現れる時刻。現在値を最も速い三例へ合わせると二十八日、平均なら三十二日になる。
「三十日は中間値か」
「いいえ。兵站計画へ使える最後の日です。二十八日目から外縁が崩れる前提で、二日分を予備にします」
以後は北塔の魔力量を六刻ごとに測り、ハーゼ襲来時の増加曲線へ重ねる。外縁三十日は最悪値、中心流四十五日は中央値。雨や魔力脈の乱れで二日は縮む。
ただし儀式核を止めた瞬間に全てが消える保証はない。既に引き寄せられた蝕が惰性で進むなら、帰路の防衛も必要になる。
だから王都攻略へ全軍は出せない。残す兵は勝った後まで領民を生かすための兵だ。
二重の期限がある。三十日で領民を守り、四十五日で王都の儀式を止めなければならない。
本当の期限は前者だ。外縁が届く前に核を止めれば、旧鉱山への避難は一度で済む。届いてしまえば、残る十五日で二度目の避難をすることになる。
窓外では訓練鐘へ切り替わった。兵が避難路を開き、マルタの施療班が薬を積む。ノルド、ハーゼ、メルカで作った仕組みが命令を待たず動いている。
世帯札を持つ者は指定倉庫へ並び、子供と老人は色札ごとの荷車へ乗る。家畜は南牧場、種麦は旧鉱山、井戸には封印蓋。誰も領主の次の命令を待たない。
ノルドの元避難民が誘導役になり、ハーゼの鐘守が鳴らし方を教え、メルカの商人が輸送路を分担する。征服した土地が領地を守る仕組みとして返ってきた。泣く者はいても、行き先を失って走る者はいない。
鐘が鳴って半刻後には小麦の値が跳ねた。商人二人が倉庫を閉じ、値上がりを待とうとしたからだ。市場監督が扉へ領主印を貼り、その場で在庫を公定価格へ戻す。
群衆から石が飛ぶ前に、元投降兵が声を張った。
「並べ! 簒奪公の倉庫は逃げねえ。俺たちが攻めた時でさえ飯を出した!」
かつての敵兵の言葉で列が整う。あの日に食わせた一杯が、いま目の前の恐慌を止めている。
買い占めた商人は処刑も追放もしない。荷車ごと配給班へ組み込み、帳簿を持たせた。罰として働かせれば流通の知識まで使える。
「慈悲ですか」
シュカが聞く。
「人手不足だ。罰金も戦後に取り立てる」
商人たちは青い顔で誰より正確に袋を数え始めた。
「噂はどうだ」
「簒奪公が王都まで徴税に行くらしい、と」
「訂正するな。都合がいい」
実態は民を守るための進軍だ。胸が締まる前に悪役の理由へ逃げる。
「王都を奪えば税収が増える。領民はそのための資産だ。勝手に蝕へ呑まれるな」
広場の兵が拳を胸へ当てた。
「慈悲深き資産管理!」
緊急時でも唱和するのか。だが声が揃うと避難列の顔から少しだけ強張りが消えた。
討伐も罠も政治もいい。
俺一人を狙うなら代価を選べた。
だが民ごと呑ませるなら話は終わりだ。
軍議室へ家臣団が揃う。
ベルナデッタは剣、シュカは観測帳、リリウムは義肢の予備部品を持つ。ギデオンの地図には王都までの進軍線が引かれていた。
「東部軍一万二千のうち五千を領内防衛に残し、七千で進軍軍を編成します」
ギデオンが示す。全員で王都へ向かえば帰る領地が消える。統治の仕組みがあるから、領主だけが儀式を止めに行ける。
進軍軍は騎兵八百、歩兵四千四百、工兵六百、輸送と施療が千二百。残る兵と自警団は避難路、地下倉、三つの防壁へ配置する。
「攻城軍としては少なすぎます」
ベルナデッタが言う。
「王都を焼く軍ではない。門を開け、儀式核まで道を作る軍だ」
「では私が門を斬ります」
「開けろと言った」
斬れば開くという顔をするな。
ノルドからは弓兵二百、ハーゼからは水路工、メルカからは荷車隊が志願した。命令で徴発した数ではない。各地が自分の防衛人数を計算し、余剰だけを送り出している。
俺の征服地が初めてひとつの軍になる。それでも旗に忠義は書かせない。掲げるのは各地の避難色と、帰還先を示す道標だけだ。
軍議では原本公開の時期も決めた。今すぐ全土へ撒けば、聖蓋府は混乱を理由に街道を閉じる。まず各領の代表と勇者へ複製を送り、王都到着と同時に公開する。俺たちが逆賊として倒れても記録だけは残るよう、八方向へ同じ荷を出した。
北便はノルドの猟師、南便はメルカ商会、西便は解放した王国兵、東便は巡礼団へ紛れさせる。残る四便は川船、薬売り、葬送列、定期税便。同じ封筒を使わず、映像護符と紙写しも分けた。
一便が王都へ押収されれば、押収記録そのものが九つ目の証拠になる。
「王都まで二十五日。核の探索と攻略に使えるのは五日です」
ギデオンが日付を地図へ書く。
「一日でも遅れれば」
「言うな。間に合わせる」
リリウムが喉元の銀膜を確かめた。
「連続二刻まで。演説と号令で使い切らないで。王都に着く頃、あなたは一番喋る必要があるんだから」
「なら短くする」
義声帯の出力を上げる。
昔とは違う声。それでも全員が俺の声として待っている。
「王都へ行く」
黒い駒を玉座へ進める。
「玉座を奪り、儀式を止める。総員、簒奪の支度をしろ!」
「はっ!」
城全体が動き出した。
義声帯が微かに掠れた。リリウムが予備振動子を机へ置く。ベルナデッタは遠征用の剣を三本選び、リーゼは留守居の名簿を受け取った。
城壁へ上がる。東の空の黒が確かに濃くなっている。城壁の下では七千の灯が西へ向かう道を照らしていた。
翌朝、先頭の工兵が領都の西門を出た。次に荷車、歩兵、騎兵。最後尾では避難班が同じ門の内側へ人を誘導している。進軍と防衛が一本の街道ですれ違った。
俺は馬上で喉元の義声帯を確かめる。予備振動子は五本。リリウムが申告より二本多く積んでいた。ベルナデッタは門を斬るためではないと念を押された剣を三本持ち、シュカは八便全ての出発時刻を記録している。
城門の上でリーゼが右手を胸へ当てていた。振り返るのは一度だけにした。
西へ王都、東から蝕。俺たちはその間にある四十五日を奪いに行く。
最後尾の荷車が門を抜けた時、内側では避難班の鐘が鳴っていた。
同じ鐘が、二つの方向の合図になっている。




