第38話:王都の顔
王都エルデの城門を商人として潜った。
茶色の鬘、色硝子の眼鏡、義腕と義脚を隠す長い外套。荷車には東方の染料を積み、商会印まで押してある。
「レーゼン商会。創業七十二年?」
門衛が通行証を読む。
「東方染料の相場は」
突然聞かれた。
「青晶一樽が銀貨十二。雨季前なら十五。王都で二十を超える店は避けたほうがいい」
昨夜シュカに叩き込まれた数字を返す。門衛は荷の封をひとつ切り、指へついた青を嗅いだ。
義脚が石畳へ触れるたび小さく鳴る。外套の裾で隠しても音は消せない。
「足を悪くしたのか」
「荷車に轢かれまして。商売敵へ安売りを迫った罰です」
「商人らしい怪我だ」
門衛が笑い、通行印を押した。剣を交えるより心臓に悪い。
「昔から在る商会です」
隣のシュカが答えた。
門を抜けてから小声で聞く。
「聞いたことがない」
「昨日から在ることになりました」
怖い。
王都の大通りは白い石で舗装され、両側に果物と布の露店が並ぶ。噴水では子供が水を掛け合い、昼前から酒場の歌が聞こえた。
蝕を知らない都だ。
黒い空を見上げて避難路を確かめる者はいない。井戸の色を毎朝見る者も、鐘の意味を三種類覚える者もいない。
この繁栄は辺境へ蝕を逸らした対価だ。
「王都の民を恨みますか」
「知らされていない人間を恨んで何になる」
だから証拠が要る。百万の生活を罪と呼ばず、千年の選択をした者だけを裁くために。
下町の食堂へ入ると東部の噂が聞こえた。
話していた一人は先遣隊から解放された元王国兵だった。街道修繕の給金を元手に王都で小さな運送屋を始めたという。
「俺は逆賊の飯を食った。毒どころか王国軍の鍋より肉が多かった」
「買収されたんだろう」
「給金まで出た。買収なら王国にも同じことをしてほしいね」
笑いが起きる。投降兵を生かして帰した結果が、王都で勝手に俺の宣伝をしていた。
「簒奪公の領じゃ税は取られるが飢えないらしい」
「馬鹿を言え。魔人だぞ」
「王国兵へ飯を出した魔人だ」
「それが一番怖いんだよ」
悪評と実績が同じ卓で喧嘩している。俺の名前は王都の足元まで届いていた。
卓の隅で、若い騎士が一人だけ笑わずに聞いていた。
見覚えがある。開戦の前夜、領境の宿で同じ鍋を囲んだ先行隊の指揮官だ。いまは聖蓋府の警備章を袖につけている。
「……嘘ではないぞ」
騎士が静かに口を挟んだ。
「俺は領境であの男と同じ鍋を食った。毒殺を疑う俺に、向こうが条件を足してきた。互いの糧食を同じ鍋へ入れる、とな」
「聖蓋府の騎士様が逆賊を庇うのかい」
「庇っていない。見たものを見たと言っている。それを禁じる法はまだない」
卓が静まり、やがて別の話題へ流れた。シュカが小声で囁く。
「ロイク・ヴェルナー卿。先行隊の元指揮官で、あの夜の返書を書いた方です。現在は聖蓋府の門衛隊へ左遷されています」
「左遷の理由は」
「報告書に『簒奪公は約定を守った』と書いたためです」
見たものを見たと書いた騎士が、門番へ落とされる。この国の記録の扱いは、人事にまで染みていた。
顔を伏せて食堂を出る。あの騎士の名は、覚えておく価値がある。
日没までの滞在で、王都のもうひとつの顔も見た。大通りから二本外れた路地では、蝕被災地から流れた家族が六人で一部屋を借りている。王都生まれの子供は蝕を昔話だと思い、避難民の子供は鐘が鳴るたび窓を探した。
路地の端で小さな兄妹が乾いたパンを分けていた。兄の首には東辺の避難札が残っている。王都の配給所では住所がない者へ穀物を渡さないらしい。
「染料見本を運べ」
銅貨を二枚出す。善意ではない。商人が子供へ金を渡すなら仕事にする必要がある。
兄は俺の空の鞄を隣の店先まで運び、胸を張って報酬を受け取った。妹は銅貨を見て鐘より大きな声を上げる。
「おじさん、悪い商人?」
「最悪の領主だ」
「領主様なの?」
「たとえ話だ」
シュカが横で咳をした。笑いを隠したつもりだろう。
子供たちはパン屋へ走った。王都の白壁は彼らを守っているように見えて、住所ひとつを持たない者は壁の内側でも数に入らない。鎮めの儀が守る「王都」とは、いったい誰までなのか。
答えも地下の帳簿へ記されているはずだ。
闇へ潜る理由がまたひとつ増えた。
染料を売るふりで商人組合へ入る。帳簿の端に東方への送金があった。先遣隊から戻った兵が、レーゲンハルト領で得た給金を家族へ送っている。
窓口の男が元兵に尋ねた。
「逆賊の金を受け取るのか」
「王国の金より腹が膨れる」
俺が生かして帰した一人の言葉が、王都の役人一人へ届く。いつか城門が開くかどうかは、こういう会話の積み重ねで決まる。
聖蓋府の納品口では別の危機があった。検査官が染料樽の本数を帳簿と照合し、架空商会の過去三年分の取引先を尋ねる。
「昨年冬の主要納入先は」
「北区の織物工房三軒。最大は白鷺屋、次がカール染房」
「白鷺屋は去年焼けた」
「だから債権が焦げつきました。帳簿をご覧になりますか」
シュカが分厚い冊子を出す。火災日、未払い額、訴訟番号まである。検査官は途中で読むのを諦めた。
「昨日作ったのか」
「火災は実在します。商会が債権者だった事実だけを昨日から存在させました」
諜報とは何だろう。現実の方を書き換える仕事だったか。
宿へ戻る途中、広場の祈念碑を見た。碑文には王都が千年守られた奇跡を讃える言葉が刻まれ、足元では親子が鳩へ餌を撒いている。
この光景を壊すために来たのではない。誰かの村を代わりに壊す仕組みだけを終わらせる。
「民のためですか」
シュカがわざと聞く。胸が締まり始めた。
「将来の王都税を保全するためだ」
「本日の旦那様、言い換え二・一秒。王都でも平常」
観測するな。変装中だぞ。
夕方、聖蓋府の周囲を一周する。
白い尖塔、巡回兵四組、裏門へ入る納品車。義眼を通すと地上の魔力は整然としているが、地下深くで黒い渦が巻いていた。
「記録庫は想定より下だ」
「排水路から五層。そこから地図にない区画です」
一周目は商人として歩き、二周目は荷車の車軸を直すふりで裏門に留まった。巡回兵は百二十呼吸ごとに交差する。だが鐘楼の影に入る四人だけ靴底が濡れていた。地下から上がる別の巡回路がある。
義眼へ映る熱を追うと、聖蓋府の壁際で一人分が消えた。隠し階段だ。原本の保管庫へ近い可能性はあるが、戻る兵の腰には記憶封じの札が下がっている。
「近道を使いますか」
「使わない。出口が敵の詰所では退路にならん」
「旦那様が最短距離を捨てるとは」
「俺を何だと思っている」
「目的を見つけると最短距離で身体を差し出す方です」
否定しづらい観測結果を出すな。
宿へ戻る途中、香辛料屋へ寄った。地下水路の臭気をごまかすため薄荷油を買う予定だったが、店主は俺の外套から魚油の臭いを嗅ぎ取った。
「レーゼン商会なら先代を知っている。あんたは誰だ」
架空商会に先代が生えた。
シュカは一度も瞬きをしない。
「先代にお世話になった方でしたか」
「賭場でな。右の眉がなかった」
「まだ生えておりません」
店主が笑った。どうやら同じ名の潰れた商会が実在したらしい。シュカはその場で俺を遠縁の婿養子に仕立て、香辛料屋の未回収債権まで聞き出した。
店を出てから問い詰める。
「知らなかったな」
「はい。ですが嘘を増やすより、相手の記憶へ乗る方が安全です」
俺の偽名には先代と賭場と眉毛が追加された。王家の千年を暴く前に、架空の家系図が一代分厚くなっている。
夜まで宿で待つ。シュカは窓辺に水滴を並べ、巡回が通るたび一滴ずつ布へ吸わせた。十二巡目だけ三十呼吸遅い。交代兵が夜食を受け取る時間らしい。
俺は義脚の防水布を締め直し、指先で留め具の位置を覚える。暗所で外れれば目視はできない。牽引索、護符、浮筒、薄荷油。順番に触れ、シュカと互いの装備を交換して確認した。
「原本発見後、警報一度」
「複製を優先して同じ経路」
「二度」
「別行動。俺は追手を引きつけ、お前が護符を運ぶ」
「不承認です」
「軍議では承認しただろう」
「記録上は。感情上は現在も審議中です」
俺の家臣は命令への従い方まで二重帳簿だった。
月が雲へ隠れる。下町の鐘が二つ鳴り、夜警の灯が東へ曲がった。
裏手の排水路へ向かう。昼の白い都は消え、石壁を流れる水音だけが足元へ続いていた。鉄格子の前でシュカが鍵束を出す。
「どれだ」
「鍵では開きません」
彼女は格子の蝶番から留め金を抜いた。鍵穴には触れていない。
「ここから先は記録にない道です」
湿った闇の奥へ一礼する。
「行きましょう、旦那様」




