第37話:紙切れ一枚の戦争
王国を落とす武器が紙切れ一枚とは情けない。
軍議室の机に聖蓋府の見取り図を広げる。目標は地下第二保管庫にある鎮めの儀の原本。歴代の逸らし先、発動座標、犠牲地、死者数が記録されている。
「公開すれば王家の正統性が千年分まとめて崩れます」
ギデオンが地下区画へ印をつけた。
「存在は確認できました」
シュカが言う。
「ですが私の協力者も扉の位置まで。書庫へ入った者は戻っておりません」
「全員死亡か」
「異動、失踪、記憶処理。観測不能です」
ベルナデッタが立ち上がる。
「私が壁ごと斬ります」
「証拠も斬るだろう」
「では人だけを」
「潜入だと言っている」
隠し書庫は偽装術式に覆われ、普通の目では壁にしか見えない。魔力の流れを視る義眼だけが残滓を拾える。
「つまり俺が行く」
全員が同時に反対した。
「泥水を二晩よ。義脚が保つ保証はないわ」
「残っている場所を数えたことがありますか」
「閣下が潜るなら軍で王都を包囲します」
「王都包囲はまだ早い。証拠を得てからだ」
口が滑った。「まだ早い」では、包囲を既に決めた予定のように聞こえる。全員が怪訝な顔をしたのはそこだ。
「王座を奪る前に下見をしておきたいだけだ」
「では下見の計画を」
ギデオンだけが図面を引き寄せる。
「私の古巣です。地上三階までは歩数で案内できます」
「なぜ古巣の地下水路まで知っている」
「忠誠を誓わない軍師には退路が必要でしたので」
潜入は俺とシュカ。ギデオンの旧知が外から検問記録を差し替える。ベルナデッタは領境で待機し、追手だけを止める。
三つの侵入案は実物で試した。正門用の爵位証は検問鏡へ通した瞬間に赤く光る。俺の名へ付いた逆賊指定が王都全門へ共有されていた。商隊案では義脚の接続部を荷役人に見せる必要があり、魔人化の残滓を検査官に拾われる。
試験役の役人はギデオンだった。机を横倒しにして検問台を作り、やけに生き生きと賄賂まで要求してくる。
「通行税が不足しております」
「王都の検問官は領主からも取るのか」
「取れる相手から取るのが中央官僚です」
嫌な実感がこもっていた。銀貨を一枚滑らせると、横からベルナデッタが机を叩き割った。
「不正役人を排除しました。お通りください」
「潜入試験を排除するな」
割れた検問台の前で、ギデオンだけが銀貨を懐へ入れた。返せ。
地下水路用の装備も泥水で試した。義脚の膝へ油布を二重に巻き、継ぎ目には蜜蝋を詰める。腰には細い牽引索。俺が動けなくなればシュカが引く。シュカが倒れれば俺が護符を運ぶ。二人とも倒れれば、水流へ浮く筒へ複製を入れて下流へ流す。
リリウムが樽へ護符を沈めた。百を数えて引き上げ、映像を壁へ投じる。映ったのは検問台を壊すベルナデッタと銀貨を盗むギデオンだった。
「鮮明ね」
「消せ」
「重要な犯罪記録です」
少なくとも防水は信用できる。
地下水路だけが身分も義肢も問わない。代わりに水深、泥、巡回、夜明けという四つの期限がある。
撤退条件も決めた。原本を発見できなくても夜明け前に離脱。警報が二度鳴れば別行動。
「撤退時刻を過ぎたらどうします」
シュカが聞く。
「原本を見つけても捨てる。写しが一頁でもあれば外へ出す」
「旦那様自身と護符、どちらかしか出せない場合は」
「護符だ」
ベルナデッタの籠手が机を軋ませた。俺より先に怒るな。
「私が水路へ同行します」
「鎧で沈む。地上の追手を止めろ」
「では追手が来ることを願って待ちます」
待機の意味が違う。
最後の条件へ彼女は最後まで反対したが、王国を落とすのは俺の命ではなく記録だと押し切った。
「承諾しました」
顔はひとつも承諾していない。
ギデオンは地図の余白へ合流地点を三つ書いた。第一は城壁外の林、第二は西の廃礼拝堂、第三はノルドへ続く旧街道。どれも王国官吏時代に自分の逃走用として調べた場所だ。
「忠誠を誓わない人間は準備がいいな」
「閣下と違い、私は自分を消耗品だと思っておりませんので」
家臣団の視線が一斉にこちらへ向く。話題を変えた。
「留守中の統治を確認する。食糧倉は」
「三十日分を確保済みです」
ギデオンが即答する。俺が王都で捕まった場合まで含めた数字だ。
「魔物の氾濫が起きたら第二防壁まで住民を下げろ。税の徴収は止める。薬草と保存食は領主府が買い上げて配れ」
「潜入前に遺言を始めないで」
リリウムの声が低い。
「統治命令だ」
「帰って命令の続きを出す人の言い方をして」
善意で説明すれば誓約が灼ける。だからいつもの言葉を選ぶ。
「俺の領民を勝手に減らすな。税を払う者が減れば損だ」
廊下で書類を運んでいた文官たちが足を止める。深々と頭を下げられた。なぜ悪役の口上で安心する。
出立の前日、リリウムが義眼へ小さな機構を組み込んだ。記録層を二重化し、片方が壊れても映像を残す。
複製先は義眼横へ留める着脱式の護符だ。十呼吸ごとに新しい映像を同期し、外せば単独で再生できる。
「グレゴールが義眼を壊しても、これだけ外へ出れば勝ちよ」
「俺より護符を心配するな」
「両方戻して。優先順位を決めた覚えはないわ。今回は公認の機能よ」
「最初から無断でつけた機能だろう」
「全部撮ってきて。あなたが見た千年を、誰にも消させないで」
金の義眼へ赤い記録印が灯る。
剣ではなく証拠で王国を落とす戦争が始まった。
その夜、領主府の裏門へ荷馬車が一台入った。乾魚と油を積んだ王都行きの商隊である。荷台の底板を外すと、人二人が伏せられる隙間があった。城外までは商人、城内では下水清掃人。衣服も身分も二段で捨てる。
シュカは商人の匂いまで染みつかせるため、魚油を俺の外套へ塗った。
「もっと少なくできないか」
「鼻の利く検査官はおります」
「帰還後、この外套は焼く」
「証拠隠滅ですね」
俺は王家の罪を盗みに行く前から、自分の臭い証拠を消す決意をした。
夜明け前、荷台へ潜り込む。底板が閉じる直前にベルナデッタが牽引索を握った。
「これを引けば戻れますか」
「城壁の向こうまでは無理だ」
「では長くします」
「王都まで届く綱を作る気か」
彼女は本気で計算を始めた。ギデオンが指を一本ずつ外させる。
「閣下、予定より一日遅れた場合は第一地点を捨てます。二日なら第二も。三日で全隊を撤収させます」
「四日目は」
「私が王都へ閣下の死亡届を出し、相続処理を始めます」
「助けに来ないのか」
「死者の領地を守るのが軍師の務めですので」
冷酷な答えに聞こえる。だが救出のため領軍を動かせば、王都は証拠ごと俺を消す。あいつは俺が戻る場所を守ると言っているのだ。
底板が閉じ、暗闇になる。車輪が石を噛んだ。領主府の門を抜ける振動を、義眼の記録印がひとつずつ刻んでいく。
「原本を得ても即時公開はしない。王都へ偽造と言わせない相手へ先に渡す」
「勇者ですね」
闇の中で白い駒を思い浮かべる。アルヴィンなら信じない。だから調べる。信じたい答えより事実を選ぶ男へ、最初の一枚を撃ち込む。
原本から護符、護符から暗号写本、写本から勇者へ。誰が捕まっても次の一人までは辿れないよう受け渡し役を分けた。日付、頁番号、封印の傷まで別便で送り、三つが揃って初めてひとつの証拠になる。
剣なら振り下ろした瞬間に勝敗が見える。紙の戦争は違う。運ぶ者、読む者、疑う者、その疑いを検証する者までが戦場になる。
荷車が石畳を離れ、土の道へ入った。
義眼の記録印が、またひとつ落ちる。
王都の門は、まだ背中の側にあった。




