第36話:心臓だけは、まだ駄目よ
リリウムの義脚は生身より速く走れるらしい。
黒銀の骨格へ人工筋を巻き、膝と足首に魔力回路を通してある。左腿の接続部には衝撃を逃がす赤い環が三重に刻まれていた。
「《簒奪の左脚》」
「その命名規則は変えないのか」
「シリーズものだもの」
装着台へ腰かける。接続の瞬間、存在しない足裏へ床の硬さが数値として戻った。
「立って」
「簡単に言うな」
右脚へ体重を残し、義脚を床へ置く。膝が伸びすぎて前へ倒れた。リリウムが胸元を掴んで止める。
「歩き方から覚え直しね」
「腕より面倒だ」
「腕は転ばないもの」
一日目は工房を三歩。二日目は廊下を十歩。三日目に階段を下りた。
四日目、初めて庭へ出た。
平らな床では誤魔化せた左右の差が、土の柔らかさで露わになる。右足は沈み込みを感覚で捉えるが、左は数値が一瞬遅れて義眼へ届く。
一歩目で踵が深く入り、二歩目で膝が外へ逃げた。転ぶ前に杖をつく。
「杖を嫌がらないのね」
「転んで義眼まで割るより安い」
「少し賢くなった」
リリウムは十歩先へ水の入った杯を置いた。
「こぼさず取って戻って」
「子供の訓練か」
「子供は歩けるわ」
反論できない。
足裏の数値を見すぎると前が見えない。義眼表示を閉じ、右肩と腰の傾きで左脚の位置を推測する。ベルナデッタとの稽古で覚えた体の読み方を、自分へ使った。
杯まで十二歩。帰りは十一歩。水は半分残った。
「合格?」
「明日は全部残して」
リーゼが庭の端から拍手する。転ぶところを見せたくなかった相手に、立ち直るところまで見られた。
義脚は踏み込む力が強く、石段を一段欠けさせた。日常設定では出力を三割に制限する。
着脱は朝晩一度ずつ。接続部を布で拭き、人工筋へ油を差す。雨に濡れた日は膝の水抜きが必要で、怠れば翌朝に動作が遅れる。
「整備を使用人へ任せては?」
「自分の脚を他人任せにするな。異常へ最初に気づくのは使う本人よ」
リリウムは手順書を壁へ貼った。義眼、義腕、義脚。朝の支度だけで小半刻かかる体になった。
「雨の日は少し軋むわ」
「欠陥か」
「直せるけど残したの」
リリウムは膝の留め金を撫でた。
「あなたが失くしたことを忘れない程度に」
鏡の前へ立つ。
左眼は金色の義眼。左腕は黒銀の義手。左脚も作り物になった。体の左半分だけ見れば、手配書に描かれた魔人へ近づいている。
中身は原作から離れようとしているのに、外側だけは破滅したヴァイスと同じ姿へ寄っていく。
手配書を鏡の横へ置く。黒い角、金の左眼、異形の左腕。脚まで描かれていないが、外套の下に人の足があった保証はない。
「原作へ近づいているのか、離れているのか」
「何の話?」
「独り言だ」
手配書の男は一人で死んだ。鏡のこちらには工具を持つリリウムがいて、扉の外にリーゼとギデオンがいる。姿が同じでも結末まで同じとは限らない。
「似合うでしょう?」
「褒めていない」
その朝、夢を見た。
生身の両脚で何もない草原を走る夢だ。敵も蝕もなく、目的地すらない。ただ足裏で土を蹴り、風より速く進んでいた。
目覚めた時、左の足裏だけ布団の温度がなかった。
右足を床へ下ろし、続いて義脚を装着する。夢では何も考えず走れた。現実では留め具を三つ確かめ、出力を選び、杖の位置を確認してから立つ。
面倒で、遅く、それでも立てる。
誰にも話さない。失ったものを数えれば、次に差し出す理由を探してしまう。
調整の終わりにリリウムが工具を置いた。
「左眼、左腕、左脚」
「棚卸しか」
「次はどこかしら」
いつもの笑顔だった。だが声が低い。
「……心臓だけは、まだ駄目よ」
「なぜだ」
「あれはわたしの、最高傑作の予定地だから」
冗談の顔で目だけが笑っていない。
「勝手に予定地へするな」
「先約よ」
「誰とのだ」
リリウムは答えず胸へ耳を当てた。鼓動を数え、まだ生身で動いていることを確かめる。
「今はこれでいいわ」
「今は、とは何だ」
「生身の心臓があなたを動かしている間は、わたしの出番じゃないという意味」
「動かなくなった後に出番が来ても遅いだろう」
「だから準備するの」
机の引き出しから一瞬だけ赤い図面が見えた。心臓に似た輪郭へ複数の魔力管が伸びている。すぐ閉じられ、詳しくは読めない。
「いつから描いている」
「あなたが左眼を置いて帰った日から」
冗談ではなかった。
何が今だけなのか聞けなかった。
庭へ出ると小雨が降っていた。
左脚が一歩ごとに小さく軋む。リーゼが右手を握り、義手にも自分の左手を添えた。
雨で濡れた石畳は訓練場の土より滑る。リーゼの歩幅に合わせて出力を落とし、義脚を半歩ずつ置く。
「走れるの?」
「生身より速いらしい」
「今は?」
「転ばず歩くので精一杯だ」
「じゃあ一緒だね。わたしも雨の日は走っちゃ駄目って言われる」
同列にされると気が楽になった。
「お兄さま、音がするね」
「整備不良だ」
「忘れないためでしょう?」
聞かれていたらしい。
◇◆◇
義脚に慣れるまでに、季節が二度巡った。
軋む音は季節ごとに変わる。夏は乾いて高く、秋の長雨では低く沈んだ。冬に一度、留め金が凍って庭で立ち往生し、リーゼが湯を運んでくる。次の冬には、湯を運ぶその手が俺の肘より高い位置にあった。
その間に黒い旗は十二本へ増えた。ノルド、ハーゼ、メルカから始まった征服地が街道でつながり、地図の上で一本の線になっている。ギデオンの帳簿では税収が倍になり、シュカの網は二百十三人から三百を越えた。捕虜から領民になった男の子が、避難訓練で色紐を配る側へ回っている。
王国は動かなかった。討伐は保留のまま、聖蓋府は次の口実を探し、勇者は書庫にいる。
原作でヴァイス・レーゲンハルトが討たれるはずだった年が、そうやって静かに近づいていた。
◇◆◇
雨の朝、執務室ではギデオンが地図を広げて待っていた。
「閣下。歩けるようになった途端で恐縮ですが」
「二年前から歩いている」
「では、ようやく王都へ忍び込む算段の話を」
机には聖蓋府の見取り図、地下書庫の警備表、王都の協力者一覧がある。
「鎮めの儀の証拠か」
「公式記録ではなく原本を。勇者も同じ場所を探り始めています」
ギデオンは三本の侵入経路を示した。
ひとつは貴族として正門から入る。勧告を拒否した男の顔は門衛全員が知っている。二つ目は商隊へ紛れる。義眼と義肢が目立ち、検問で止まる。三つ目は地下水路。距離は長いが聖蓋府の旧排水路へ繋がる。
「義脚で水路を歩けるか」
「防水はできる。でも雨の整備どころでは済まないわ」
リリウムが図面を見る。
「帰還後に全分解。魔力回路へ泥が入れば二日は歩けない」
「なら帰りの車椅子も用意する」
「最初から帰還後を考えるようになりましたね」
ギデオンが珍しく笑う。
「失う前提ではない。壊れても戻る前提だ」
言葉にすると違いがわかった。以前は目的のためなら体を置いていけばいいと思っていた。今は置いてきた後も帰る場所と、待つ者の顔を知っている。
シュカが一枚の紙を重ねた。
「もう一件。王都の耳から、気になる数字が」
王都地下の魔力脈。その流量記録で、東側の三本だけが通常値を超えている。偏りそのものは二年前から聖蓋府の記録にあった。自然変動として処理され続けたその数字が、今月、初めて閾値を越えた。
「東というと」
「延長線上に、この領があります」
ノルドで見た波形を思い出す。逸らす術式と、蝕と、俺の紋章。同じ何かでできた流れが、いま東へ寄せられているとしたら。
「グレゴールが蝕の進路を動かしていると?」
「確度は最下位です。ですが偶然にしては、方角が良すぎます」
会見の日の老人の目を思い出した。剣で斬れない相手には、守る対象を増やして重さで潰す。俺の強みを、俺ごと沈める最も安い方法だ。
「観測を続けろ。リリウム、義眼の波形記録と突き合わせられるか」
「東の三本ね。……前兆が出たら、燃やす前に観測させてと言ったでしょう。準備はしてあるわ」
急ぐ理由が、もうひとつ増えた。
机の端にはリーゼの白い石がある。返そうとしたが、次も持っていけと言われた。
「紙切れ一枚のために、今度は何を払うつもりですか」
「入場料なら王国へ払わせる」
「その答えなら結構です」
俺は義手で黒い駒を取り、地図の中央へ置いた。
王都エルデ。
「奪るのは玉座――の前に、まず紙切れ一枚だ」
黒い駒の隣へ、勇者を示す白い駒が置かれた。敵か味方かはまだ決まらない。それでも同じ地下記録を目指している。
雨音の中で義脚がもう一度軋んだ。
心臓だけはまだ駄目だというリリウムの声が耳に残っている。まだ、という言葉の期限が来る前に、王国の千年を奪う。
廊下の向こうでリーゼが待っている。軋む音へ歩幅を合わせながら、俺は自分の足で次の戦場へ向かった。




