第35話:急所に来ない剣
西街道の帰還路。
焚き火でアルヴィンは折れた剣を見ていた。
副官が新しい薪を入れる。火の粉が白い鎧へ飛んでも、勇者は払わなかった。
「あの男の剣は一度も俺の急所に来なかった」
「手加減されたと?」
「違う。俺を生かすため、あいつは全力を使った」
首を落とせる距離で刃を引いた。落下する体を受け止めた。魔人の力で聖剣を奪いながら、勇者の手首を折らなかった。
「逆賊の剣じゃない。あれは――守る者の剣だ」
「しかし王座を狙っています」
「それも嘘ではない」
だからわからない。わからないまま殺すことだけはできなかった。
副官は監察官の天幕を見る。
「王都では厳しい処分が待つでしょう」
「わかっている」
アルヴィンは折れた剣を布で包んだ。
「それでも次に抜く時は、命令ではなく俺が理由を決める」
「我々はどこまでお供できますか」
副官の問いにアルヴィンは答えられなかった。勇者一人の越権なら処分は一人で済むが、隊が意思を共有したと判断されれば全員の家族まで監視対象になる。
「王都では俺の判断だったと言え」
「事実ではありません。決闘場で監察官の命令を拒んだのは私です」
「なぜ拒んだ」
「メルカでヴァイス殿の兵と働きました。逆賊を討つため村人を巻き込む命令が正しいとは思えません」
考え始めたのは勇者だけではなかった。
アルヴィンは折れた刃の断面を撫でる。あの最後の一合で互いに軌道を変えた。ヴァイスも気づいていたはずだ。
「次に会う時までに答えを探す」
「彼が王座を奪う前に?」
「できれば」
久しぶりに副官が笑った。
◇◆◇
王都、聖蓋府執務院。
報告を聞いたグレゴールは怒らなかった。
「討伐を保留。勇者の越権です」
監察官が鎧を失ったまま頭を下げる。
「勇者が考えることを覚えたか。厄介な」
老人は盤上の白い駒を横へ置いた。代わりに黒い染みが描かれた地図へ指を伸ばす。
「剣で斬れぬなら、守る対象を増やせばよい」
側近が新しい報告を差し出す。王都地下の魔力脈で流量の偏りが観測され、東側の三本だけが通常値を超えていた。
「自然変動の範囲かと」
「自然かどうかを決めるのは記録ではない。使う者だ」
グレゴールは地図へ地名を書かず、赤い円だけを置いた。側近にもまだ目的地を知らせない。
「勇者の処分は」
「謹慎。聖剣の再鍛造が終わるまで書庫整理を命じよ」
「軽すぎませんか」
「考える者を牢へ入れれば、自分が正しいと確信する。資料の中へ置き、千年の重さを見せる」
それでも疑うなら、その時こそ勇者は敵になる。老人はわかった上で機会を与えた。
「私の処分は」
監察官が頭を下げたまま問う。
「東方監察の任を解く。代わりに書記院へ回れ。東の記録がこれからどう書かれ、どう流れるかを見張る仕事だ」
鎧を失った男の目に、安堵と別種の熱が灯った。剣の戦で負けた者ほど、筆の戦で取り返そうとする。老人はその使い道を知っていた。
「蝕の進路を?」
「まだ何も命じていない」
否定ではなかった。
◇◆◇
王都、中央記録書庫。
アルヴィンは処分を待つ間、王都書庫へ通った。
『鎮めの儀、実施。被害軽微』
『魔力脈、異常なし』
『辺境への影響、確認されず』
百年分の記録が同じ言葉で揃っている。筆跡も担当者も違うのに、失敗も迷いもない。
「綺麗すぎる」
メルカの帳簿には不足した薬、遅れた荷車、負傷者の名まであった。人が行う仕事に誤差がないはずはない。
公式記録が綺麗なら、汚れた原本が別にある。
四十七年前の一冊だけ頁番号が飛んでいた。三百十二の次が三百十九。綴じ糸は新しく、後から六頁を抜いた跡がある。
貸出簿では同じ年の原本が『地下第二保管庫・災害記録甲七』へ移されていた。閲覧者欄は空白だが、移管命令にはグレゴールの前任者が署名している。
「公式記録を作った後、原本を地下へ隠した」
アルヴィンは目録番号だけを記憶し、紙へ書かなかった。監視役の書記が背後で欠伸をしている。
綺麗すぎる記録の汚れた部分へ、ようやく指がかかった。
貸出簿を閉じ、地下保管庫の目録を求める。
目録を待つ間、手帳を開いた。メルカの夜の一行が目に入る。
『三年後も同じことを言えるといいな――なぜ、三年?』
書庫の年表と並べて、初めて気づく。三年後に、聖剣の再鍛造も、徴募の節目も、王国の暦を特別にする行事は何もない。
なのにあの男は、三年後の俺を知っているように言った。
急所に来ない剣。前兆の位置を観測官より正確に知る目。綺麗すぎる記録を最初から疑っていた口ぶり。そして、三年。
「……貴様は、何を知っている」
誰もいない書庫で呟いた。次に会う日、聞くべきことがまたひとつ増えた。
◇◆◇
レーゲンハルト城、主寝室。
三日間、俺は熱の中にいた。
左脚はもうない。それなのに足首を焼かれ、爪を剥がされるような痛みが来る。逃げようと体を動かすたび空の寝台へ左側が傾いた。
ベルナデッタは寝ずに扉を守った。
一日目の夜、彼女は剣を膝へ置いて寝台脇に座った。目を閉じず、俺の呼吸が一度止まるたび身を乗り出す。
「敵襲はない」
熱の中で言うと首を振った。
「閣下を奪うものは敵です。熱も、痛みも」
「斬れるなら頼む」
本気で剣へ手をかけたのでマルタが取り上げた。
「交代しろ」
ギデオンの声がする。
「閣下が目覚めるまでが果たし合いです」
「その理屈では貴女が先に倒れます」
シュカは熱と呼吸を一刻ごとに記録し、リリウムは失われた脚の断面へ術式を当てる。ギデオンは決裁書を持ち込んでマルタに追い出された。
二日目、シュカの記録には熱だけでなく寝言まで増えた。
『勇者を殺すな』『リーゼを逃がせ』『左脚は安い』
「最後の一文は消せ」
半分目覚めて抗議したらしい。
「記録の改変はできません」
返事だけ覚えている。
リリウムは幻痛が強まるたび、存在しない足の位置へ冷却術式を置いた。触れられないはずの場所が少しだけ軽くなる。
「脚がないのに」
「脳にはまだあるの。だから脳が信じる形で冷やす」
狂気の錬金術師が一番現実的だった。
「病人へ仕事を見せれば起き上がるでしょう」
「だから禁止です」
声だけが遠く聞こえた。
三日目の朝、右手へ温度が触れた。
目を開けるとリーゼがいる。寝台へ伏せていた顔を上げ、泣き腫らした目で笑った。
「おかえりなさい、お兄さま」
勝たなくていいから帰ってきて。
約束どおり勝てなかった。それでも帰った。
「……ただいま」
素直な言葉が出た。
胸の誓約は痛まなかった。
午後、病み上がりの執務室へリリウムが来た。
車椅子、松葉杖、丸めた図面を並べる。
「選んで。歩けるようにする方法なら、もうできてるから」
図面には三種類の足首が描かれていた。速度重視、安定重視、魔力伝導重視。俺は中央の安定型を指す。
「戦闘型を選ばないの?」
「まずリーゼの歩幅で庭を歩く」
リリウムが一瞬だけ目を丸くし、図面へ採用の印をつけた。
「その注文なら、絶対に仕上げる」
失った脚の代わりを戦場だけで考えなかった。それが帰還できた証明のように思えた。
「選択肢は」
「車椅子なら今日。松葉杖なら熱が下がって二日後。義脚なら適合に三日、歩行訓練を含めて一週間」
「全部使う」
「欲張り」
「車椅子で執務室へ行き、松葉杖で工房へ通い、義脚を作る。時間を無駄にしない」
扉の外でギデオンが咳払いした。仕事を持ち込む許可が出たと思ったらしい。
「一日一刻だけです」
マルタが先に釘を刺す。
「病人へ遠慮のない家臣団だ」
「三日眠った領主へ遠慮して国が止まるほうがお望みですか」
「それも困る」
車椅子へ移る時、左脚のない重心にまた体が傾いた。ベルナデッタが背中を支え、リーゼが右膝へ毛布を掛ける。シュカは時刻を記し、リリウムは断端の寸法を測った。
誰も喪失を見なかったことにはしない。見た上で次の動作へ変える。
執務室の窓から西街道を見る。勇者の姿はもうない。それでも折れた剣と保留の言葉が、王都のどこかを動かし始めている。
「アルヴィンは調べると言った」
「では我々も先に証拠を奪いましょう」
ギデオンが答える。机には王宮時代に追っていた失踪者の名簿と、祈祷費が跳ね上がった年の一覧が並んでいた。公式記録が綺麗すぎるという疑いだけは、こちらも同じ場所を指している。
病床から戻った最初の仕事は、王都地下へ入る道を探すことになった。
折れた剣が、次の扉を示していた。
調査は始まる。




