第32話:左脚をくれてやる
割れた壁から体を起こす。
義腕の指は二本動かない。右手の剣にも刃こぼれがある。アルヴィンは俺の腕を見たまま動かなかった。
「眼だけじゃない。左腕まで、誰かを守って失ったのか」
「王国兵八百人を徴税対象に変えただけだ」
「またそれか」
「便利な理由だろう」
距離を取り、左胸へ義手を置く。感覚のない指越しにも紋章の熱が伝わった。
右眼と右腕は残す。声も要る。
選ぶ場所は決まっている。
「左脚をくれてやる」
紋章が開いた。
黒い魔力が砦を覆い、赤い線が皮膚の下を走る。角のような魔力が額から伸び、義眼の金色が暗く燃えた。
義眼の記録印が明滅する。魔力の奔流に耐えられるのは短い断片だけだ。シュカの遠写術が止まっていないことを岩棚の青い光で確かめる。
左足の裏から力が湧いた。石の粒をひとつずつ踏み分けられるほど感覚が鋭い。代価へ選んだ機能が、消える前だけ過剰に燃えている。
アルヴィンの顔が引き締まる。
「魔人ヴァイス……」
原作の構図が完成した。白い勇者と黒い魔人。物語なら迷う余地もなく俺が斬られる場面だ。
「来い、勇者」
地面を蹴る。
距離が消えた。剣を振れば首を落とせる。代わりに聖剣の腹へ義腕を当て、軌道だけを上へ外す。
右肩で胸を押し、アルヴィンを壁へ運ぶ。石が砕けた寸前に力を抜いた。
壁へ触れる直前の減速で左足の小指が冷えた。最初の徴収だ。
アルヴィンは壁を蹴って反転し、聖剣を逆手に持つ。俺の義腕が壊れていると見て左側へ攻撃を集めた。判断は正しい。親指と人差し指だけで刃を挟み、手首ごと回して軌道を逸らす。
金属が悲鳴を上げた。義腕の肘から火花が散る。
「作り物まで壊す気か」
「止まらない貴様が悪い!」
「なぜだ!」
「何がだ」
「その力なら今ので殺せた!」
「お前の命を奪って何の得がある」
聖剣が横へ走る。屈んで避け、足首へ剣の腹を当てる。転倒した体を義腕で受け止め、地面へ叩きつけず転がした。
殺さない動作は殺すより一手多い。
聖剣の突きを受け、柄を絡め、肩へ抜く。首へ向かう刃を掴み、アルヴィン自身の勢いで地面へ伏せさせる。ひとつの攻撃に対して止める、逸らす、受け止めるの三手が要る。
左足の冷えは小指から足裏、踵へ広がった。踏み込むたび地面の感触が欠けていく。
アルヴィンも変化へ気づく。
「左脚を庇っている」
答えの代わりに蹴りを放つ。今なら岩を砕く威力がある。脇腹へ当てず、聖剣の鍔だけを狙った。剣が手から浮く。
その一手ごとに左脚の感覚が削れる。
アルヴィンは立ち上がり、白い魔力を全身へ纏った。剣速がさらに上がる。
一撃目を流す。二撃目を義腕で受ける。三撃目は肩へ浅く食い込み、血が黒い外套を濡らした。
痛みはある。まだ人間の体が残っている証拠だ。
「俺を侮辱しているのか!」
「殺さなければ侮辱か。勇者は面倒だな」
「全力で来い!」
「全力で生かしている!」
口にした瞬間、紋章が心臓を握った。呼吸が止まり、喉へ血の味が上がる。魔人化の傷ではない。善意を自分の言葉で認めた罰だ。
アルヴィンの剣が止まる。
「今の痛みは何だ」
「持病だ」
「嘘をつけ」
「戦場で診察を始めるな」
痛みを押し込むように悪意へ戻す。
「徴税対象を壊さないよう加減しているだけだ。お前は俺が王になった後も働かせる。ここで壊れることは許さん!」
締めつけが緩んだ。最悪の実演で誓約の存在を教えてしまった。アルヴィンは剣より俺の胸を見ている。
左脚の感覚は爪先から消え始めていた。次に足裏、踵、脛と失われ、地面を蹴るたび義眼へ接地圧を表示しなければ踏み込んだ場所さえわからない。
それでも速度は落とさない。残る感覚を前借りして、勇者の剣を一合ずつ鈍らせた。
やがてアルヴィンの剣が鈍る。
その隙に懐へ入り、手首を絡める。魔人の膂力なら骨ごと握り潰せる。指を開き、剣を落とすだけの圧力へ調整した。
聖剣が地面へ落ちる。
だがアルヴィンは手放したまま拳を握った。剣士としてでなく一人の兵として懐へ潜り、義腕の接続部を肘で打つ。
左肩から制御が飛んだ。義手が垂れ下がる。
「リリウムに怒られるだろうが!」
「俺は殺されかけているんだぞ!」
互いに剣を失い、拳と肩で組み合う。膂力では魔人の俺が上だが、アルヴィンは呼吸の切れ目へ体重をかけ、関節を使って力を逃がした。
蝕の巨体と戦うための技術だ。単なる能力値では押し切れない。
俺の刃が首筋へ止まった。
「ほら、殺せる」
アルヴィンが息を呑む。
刃を引いた瞬間、拳が頬へ入った。視界が揺れ、組み合ったまま二人で地面を転がる。
勇者は剣を拾い、俺は膝で立つ。左足首の感覚がもうない。
白と黒の魔力が何度も衝突した。
義眼の記録が一度消え、数呼吸後に戻る。視界の端では左足首が魔力へ透け始めた。靴は残っているのに中身だけがない。
アルヴィンの息も限界へ近い。聖剣を握る指が震え、白い光が一定に保てない。俺は勝てる。首へ一撃入れれば終わる。
その選択肢だけを捨て続ける。
代わりに肩を押し、剣の呼吸を乱し、立ち上がるたび足を払う。勇者がもう戦えないと自分で理解するまで終わらせない。
壁が崩れ、砂塵が舞う。互いの呼吸が荒くなる。俺は急所を外し続け、アルヴィンも途中から首を狙わなくなった。
魔人化の限界と勇者の体力切れが同時に近づく。
最後の組み合いで聖剣を義腕へ挟む。アルヴィンの肩を右手で押さえ、二人とも片膝をついた。
左脚は膝下から存在しないように冷たい。
「……話せ」
土埃の中で先に口を開いたのは勇者だった。
「貴様は、何なんだ」
俺の左膝が地面へ落ちる。足首のあった場所から赤い粒がほどけ、靴だけが空の形を保っていた。アルヴィンは聖剣を向けたまま一歩も近づかない。
討伐対象が最も弱った瞬間だ。それでも止めを刺さない。俺が急所を狙わなかった事実が、王命より先に剣を止めている。
魔人化は解除寸前だった。残る数呼吸で殺すことも逃げることもできる。俺はどちらも選ばず、壁まで這った。
均衡が崩れ、体が傾く。アルヴィンが俺の腰を支えた。敵を助けたと気づき、すぐ手を離す。
「今、何が起きている」
「代金の徴収だ」
「魔人の力は体を奪うのか」
「見ればわかる」
「眼も腕も」
「そうだ」
初めて隠さず認めた。善意ではなく仕組みの説明だから紋章は動かない。
アルヴィンは自分の傷を見た。浅い切創と打撲だけだ。対して俺は左眼、左腕、今また左脚を失う。
「俺を生かすために、それを払ったのか」
「勘違いするな」
胸が締まり始める前に言葉を重ねる。
「お前が死ねば蝕への戦力が減る。王国を奪った後の損失だ」
「徴税、戦力、損失。貴様はいつも数字へ逃げる」
「数字は嘘をつかない」
「数字を選ぶ人間は嘘をつける」
勇者らしくない鋭さだった。
魔人の角が薄れ、黒い魔力も地面へ落ちる。戦闘は止まっているのに決闘は終わっていない。規則上、どちらも降参していないからだ。
「立てるか」
「敵へ聞くな」
「なら立て。まだ答えを聞いていない」
アルヴィンは聖剣を地面へ置き、俺から三歩離れて座った。止めを刺せる時間を自分から捨てている。
こいつも既に勅命どおりには戦っていなかった。




