第3話:三層の目的
机いっぱいにレーゲンハルト領の地図を広げた。
東西を貫く街道。穀倉地帯を潤す二本の川。城下から半日ほどの距離に点在する十二の村。羊皮紙に記された地名のひとつひとつが、いまは俺の記憶の中にあるゲームの地図と重なっている。
俺は黒いインクを含ませたペンを手に取った。
五年後、《蝕》は北東の山地に発生する。
黒い浸食は谷を下り、川に沿って南西へ伸びる。最初の村を三日で呑み、十日後には城下へ到達。レーゲンハルト領を貫通したあと南の諸侯領へ移る。
ゲームの攻略本に載っていた発生図を思い出しながら線を引く。
その線上に八つの村があった。
城もある。
「綺麗に真ん中を通っているな」
偶然ではない。
俺は椅子へ深く座り、原作終盤で明かされた裏設定を思い出せる限り並べた。
王都エルデは建国以来千年、一度も蝕に侵されていない。その奇跡を支えるのが、王家の《鎮めの儀》だと民は信じている。
だが終盤のあるイベントで、勇者は王家の書庫から一枚の古文書を見つける。画面に映る文面は一行だけだった。
『都の安寧は、辺土の献身の上にある』
直後、玉座の間の地下に《儀式核》と呼ばれる何かがあること、その扉を開けられるのは王だけであることが、わずかな台詞で語られる。
ゲームの開示はそこまでだ。
核が何をしているのか。なぜ蝕は毎回、都合よく辺境ばかりを選ぶのか。最後まで明言はなく、発売後の考察が荒れに荒れたことだけ覚えている。
それでも状況は揃いすぎている。
千年無傷の王都。「辺土の献身」。王しか触れられない地下の核。
鎮めの儀は、蝕を消していない。王都へ来るはずの浸食を、どこかへ――辺境へ、押しつけているだけではないのか。
確信には一歩足りない。だが仮説なら、これしか立たない。
勇者アルヴィンはその蝕の最前線へ赴き、命懸けで被害を抑える。
勇者は何も悪くない。彼はゲームの中でも一貫して善人だった。蝕に襲われた村へ誰より早く駆けつけ、自分の傷を後回しにして子供を救う。
だからこそ救いがない。
だが王都が無傷である限り、どこかの土地が代わりに呑まれ続ける。仮説が正しいなら、勇者の戦いは永遠に終わらない。
対症療法で時間を稼ぎ続け、どこかの誰かを切り捨てる構造だ。
「前世と変わらないな」
補助金の条件に合う地域だけが先に復旧し、境界の外にある集落は後回しになる。現場の善意が足りないのではない。制度が優先順位を作るよう設計されている。
ならば確かめ、壊すしかない。
仮説の真偽がどちらであれ、答えは玉座の間の地下にある。そして儀式核へ通じる扉を開けられるのは王だけだ。
つまり王座を奪う。
原作のヴァイスが掲げた目的は、まさかの大正解――かもしれなかった。
ただし彼は儀式核の存在すら知らない。王冠を欲しただけだ。結果として勇者に討たれ、王国は従来どおり蝕に土地を差し出し続けた。
「悪役の野望が人類救済の唯一解かもしれないとは、ひどいゲームだ」
プレイヤーのころは王道の名作だと思っていた。盤面の駒になってみれば、シナリオライターに文句のひとつも言いたくなる。
俺は紙を三枚並べた。
一枚目に《三年後の討伐を回避する》。
二枚目に《一族と領民を守る》。
三枚目に《王座を奪い、儀式核を壊す》。
最初の目的だけなら王国から逃げればいい。二つ目までなら皆を連れて他国へ移住する手もある。
だが蝕はレーゲンハルト領の次に南部を呑み、やがて王国全土へ広がる。逃げた先が永遠に安全とは限らない。
三つは別々の目的ではなかった。
生きるために討伐を避ける。
守るために蝕を止める。
蝕を止めるために王国を奪う。
一本の線だ。
課題も書き出した。
兵力。資金。食糧。王都までの補給路。聖蓋府の情報。三年で国を奪うにはどれも足りない。
原作のヴァイスは武力だけを蓄えた。重税で領民を疲弊させ、傭兵を雇い、準備不足のまま反乱を起こす。序盤こそ王国軍を押したが、補給を絶たれたあとは早かった。勇者が来る前から勝敗は決していたのだ。
同じ失敗はできない。
前世の復興現場では、善意だけで物資は届かなかった。道路を直し、倉庫を押さえ、必要量を数え、運ぶ人間の寝床まで用意する。それで初めて一杯の水が被災者へ渡る。
戦争も同じだろう。英雄の一撃より、その一撃を戦場へ届ける仕組みが要る。
俺の強みは最強の剣でも巨大な魔力でもない。原作知識と、地味な実務の積み重ねだ。
「まず財政を立て直す。街道と備蓄を整え、領民を増やす」
誰に聞かせるでもなく口にする。
「健康な納税者と兵を育てるためだ」
誓約は反応しない。本音を悪役の理屈で包む方法にも少しずつ慣れてきた。
慣れたくはなかったが、生きるためには仕方がない。
俺は三枚を重ね、その中央へペンを突き立てた。
ちょうど扉が開く。
「閣下、急ぎの報告です」
入ってきた家令が泥のついた書状を差し出した。北東のノイエ村からだ。昨夜の増水で木橋の橋脚が傾き、穀物を積んだ荷車が城下へ出られなくなったらしい。
地図を見れば迂回路はある。だが山道を使えば片道で二日増え、荷車一台につき護衛も必要になる。橋を放置した場合の損失を暗算し、修繕費と比べた。
「予備費を出して今日中に石工を送れ。上流の倒木も撤去させろ。橋だけ直して次の雨でまた壊すな」
「しかし予備費の使用には御当主の御裁可が――」
「俺が裁可する。穀物が腐れば徴税分まで減る。俺の財産を川へ捨てる気か」
家令の顔から迷いが消えた。
「直ちに手配いたします」
机上で国を奪う算段をしていても、足元の橋一本が落ちれば食糧は届かない。こういう仕事をひとつずつ片づけることが、結局は王都への道になる。
家令と入れ替わるように、もう一度扉が開いた。
「お兄さま、散歩に――わっ」
リーゼが目を丸くした。机には黒い線を引いた地図と、突き刺さったペン。傍目には王国侵攻を企てる悪役そのものである。
「何をしてるの?」
「領地の将来を考えていた」
「その黒い線は?」
「敵の進路だ」
嘘ではない。敵が天災だというだけだ。
蝕の真実を話すには証拠が足りない。王家最大の秘匿事項を十二歳の妹に背負わせたくもなかった。そう言えば誓約に締め上げられるので黙っておく。
「難しい顔ばかりしてると、もっと怖い顔になるよ」
「もっと?」
「今もちょっと怖いから」
正直な妹だった。
リーゼに引かれ、城壁まで歩くことになった。
昼下がりの風は土と若草の匂いを運んでくる。眼下には緩やかな丘陵が広がり、春播きの準備をする領民たちの姿が見えた。
牛に鋤を引かせる農夫。畦で籠を抱える女。仕事を手伝うふりをして泥を投げ合う子供たち。
遠すぎて声は聞こえない。それでも彼らが笑っているのはわかる。
「今年は麦がたくさん採れるかな」
リーゼが隣で言った。
「採れる。そうさせる」
「お兄さまが?」
「俺の領地だからな。痩せた土地など簒奪の足場に使えん」
紋章は痛まない。
本音は別にある。あの畑も家も、原作では一行で消える。顔も名前も与えられなかった人々だ。
だがいまは違う。
俺が見た。
リーゼが笑った。
ここに生活があると知ってしまった。
知った以上、背景には戻せない。
「お兄さま?」
「奪ってやる」
城壁の縁に手を置き、王都がある西を見た。
「王座も、未来もだ」
胸の紋章が熱を帯びる。
今度の熱は罰ではなかった。契約が喜び、もっと言えと促している。
不愉快だが構わない。
王座を奪う。それは紛れもなく俺の野心になった。生き残るためでもあり、家族を守るためでもあり、目の前の風景を黒い線から救うためでもある。
悪の宣言と本心が初めて完全に一致していた。
「未来って奪えるの?」
「奪えなければ作る」
「じゃあ、私も手伝う」
リーゼは何の迷いもなく言った。
胸が詰まりかけ、俺は咳払いで誤魔化す。
「好きにしろ。ただし危険なことは禁止だ」
「はあい」
守ると言わなければ痛まない。何とも不便な心臓だ。
執務室へ戻ると机に一通の封書が置かれていた。使者が先ほど届けたらしい。
差出人の名を見て目を疑う。
ギデオン・ハーケン。
元王宮筆頭官僚。鎮めの儀の予算に疑義を呈し、地方へ左遷された末に職を追われる人物だ。原作では酒場の隅で王国を呪い、情報を売る脇役だった。
封を切る。上質な紙に短い文が並んでいる。
『貴公の噂を聞いた』
『雇わないか、ではない』
『雇え』
俺は二度読み返した。
「面接を受ける側の文面じゃないだろ」
だが口元は上がっていた。
王国を奪うには、俺一人の原作知識だけでは足りない。
ちょうど頭脳が必要だった。




