第2話:誓約の実地検証
善意を口にしたら心臓を締め上げられた。
普通なら医者を呼ぶところだ。だがここはゲームの世界で、俺の胸には魔性の契約が刻まれている。
必要なのは診察ではない。仕様の確認だった。
朝食をどうにか終えた俺は執務室へ籠もった。机の上に紙を広げ、覚えている情報を書き出す。
一、王座への野心を公言し続けること。
二、善意を申告してはならない。
三、王座の奪取によって契約は成就する。
設定資料集には《簒奪の誓約》とあった。ゲーム内で詳しい説明はない。そもそも倒される中ボスの行動原理を補強する裏設定にすぎなかった。
「自分の命がかかると情報不足にもほどがあるな」
愚痴を言っても資料は増えない。ただ幸いなことに、この城には原作のヴァイスが集めた魔術書がある。
俺は書庫へ向かった。
城の北塔を丸ごと使った書庫は、長年の埃と革表紙の臭いに満ちている。契約魔術の棚を見つけ、片端から背表紙を追った。
一刻半後。踏み台の上で咳き込みながら、黒い革紐で綴じた薄冊子を発見した。
表題はない。最初の頁に茨と王冠の印が押されている。
『我、王冠を簒奪する者なり』
原作のヴァイス本人が残した契約文書の写しだ。
条文を読み進めるほど頭が痛くなった。俺の記憶どおり三条項が並んでいる。しかし「野心を公言し続ける」の頻度も、「善意」と判定される範囲も書かれていない。
さらに末尾へ、第四の条項らしき一行があった。文字は黒く滲み、どの角度から透かしても読めない。指でなぞると、胸の紋章だけが微かに熱を持った。
まだ何かを待っている。そんな気配だけが残った。
契約魔術に利用規約と問い合わせ窓口を期待した俺が馬鹿だった。
ならば試すしかない。
まず条項一。
俺は椅子へ座り、机に紙とペンを用意した。意識を失う可能性を考え、撤回の文句も大きく書いておく。
「俺は王座など要らない。簒奪はやめよう」
どくん、と心臓が跳ねた。
次の鼓動が来ない。
「――っ」
胸の奥が空洞になった。指先から急速に熱が失われ、視界が狭まる。これは痛みではない。本当に止まっている。
俺は机の紙を掴んだ。
「……というのは嘘だ! 王座は俺のものだ! 必ず奪う!」
心臓が激しく脈打った。
一度。二度。遅れを取り戻すように血を送り出す。
俺は床に転がり、しばらく天井を見上げた。
「実験一回目で死ぬところだったぞ」
条項一、確認。叛意の放棄は即死級。
二度と試さないと決めた。
もっとも、検証を一度で終えるわけにもいかない。
野心を胸の中で否定した場合はどうなるのか。俺は声に出さず《王座など欲しくない》と考えてみた。
何も起きない。
次に紙へ《簒奪を断念する》と書く。自分だけが見るつもりでいる間、紋章は沈黙したままだった。
ならば筆談が抜け道になるのか。
俺は書いた紙を扉へ向けた。廊下にいる誰かへ見せる場面を思い描いた瞬間、指先から胸まで鋭い痛みが走る。
「ぐっ……なるほど」
紙を伏せると痛みが引いた。契約が禁じるのは声ではない。善意や叛意を他者へ申告することだ。私的な思考整理は許されても、筆談や代読で伝える意図を持てば制裁される。
抜け道まで塞いである。腹立たしいほど周到だった。
俺は検証表へ《内心と私的記録は不問。他者への伝達は手段を問わず禁止》と追記した。
続いて命令形を試す。
「怪我人を治療せよ」
無痛。
「空腹の者へ食料を配れ」
これも無痛。
「俺が皆を救う」
胸がきつく締まる。
「俺が支配するためにな!」
すぐに緩んだ。
罰には段階があるらしい。言いかけなら警告の痛み。善意を明言すれば激痛。王座を諦めれば心停止。実によくできた悪役矯正装置だった。
検証のたびに寿命が縮む思いだ。実際、ひとつ間違えば縮むどころかその場で尽きる。以後は不用意な独り言まで警戒したほうがいい。
「矯正される側としては一切ありがたくないが」
次は条項二だ。
善意の申告。問題は何を善意と見なすかである。
「領民を救いたい」
胸が締まる。痛い。
「使用人には十分な休暇を与える」
何も起きない。
「使用人の健康を思って休暇を――ぐあっ!」
机に額を打ちつけた。
なるほど。行動の宣言は許される。動機を善意として説明すると制裁されるらしい。
念のため言い換えてみる。
「使用人を休ませるのは長く働かせるためだ」
無痛。
「領民を救うのは税を取るためだ」
無痛。
「子供が笑っているほうが嬉し――痛い痛い痛い!」
胸を押さえて蹲る。
判定が早い。最後まで言わせてもくれない。
善意の有無は言葉遣いではなく、俺自身が申告しようとした動機で決まるらしい。ならば事実と異なる悪意を語っても許されるのか。
「領民を救う。苦しむ顔を長く楽しむためだ」
胸は痛まない。代わりに自分の発言で気分が悪くなった。
契約は嘘を禁じていない。善意を善意として伝えることだけを禁じている。俺の内心がどれほど言葉と食い違っていても、悪役らしい理由を被せれば通る。
逆に、本当に利己的な行動を善意で飾ろうとしても罰するのだろう。偽善の禁止というより善性の秘匿だ。契約を作った何者かは、悪役の評判そのものを求めている。
そこまで考えて胸の紋章を見る。赤い光は規則正しく脈打つだけで答えを返さなかった。
そのとき書庫の扉が開いた。
「お兄さま? ここにいるの?」
最悪のタイミングでリーゼが入ってきた。手には小さな籠を提げている。
「さっきから変な声がするけど……また胸が痛い?」
「これは、その、発声練習だ」
「床で?」
「床でだ」
納得していない顔で近づき、籠から焼き菓子を取り出した。
「料理長がくれたの。一緒に食べよう」
木の実を練り込んだ小さな菓子だ。記憶によればリーゼの好物だった。
俺は半分を取り、残りが入った籠を彼女へ返した。
「全部やる」
「いいの?」
「ああ。お前が好きそうだったから――」
紋章が赤く光った。
「ぐっ……!」
「お兄さま!?」
胸に杭を打たれたような痛みが走る。俺は椅子の背を掴み、どうにか言葉を継いだ。
「……食べ切れんから処分を命じただけだ! 残すな!」
痛みが消えた。
リーゼは菓子と俺を見比べた。やがてひとつを口に入れ、頬を緩める。
「うん。ちゃんと処分するね」
十二歳に気を遣われた気がする。
「今のことは誰にも言うな」
「お兄さまが焼き菓子をくれたこと?」
「違う。胸を押さえたことだ」
「どうして?」
「弱みを知られるのは支配者にとって不都合だからだ」
これは嘘ではないため痛まない。
リーゼはこくりと頷いた。
「わかった。二人だけの秘密ね」
嬉しそうに言われると良心が痛む。こちらは契約と違って物理的な罰がないぶん、まだ耐えられた。
リーゼが去ったあとも検証を続けた。
寄付、減税、治療、救助。どれも行動自体は自由だった。命令することも実行することもできる。ただし理由を問われて「助けたいから」と答えれば激痛が走る。
沈黙は許される。
悪意を装う言葉も許される。
そして条項三。解除条件は王座の奪取のみ。
「悪役をやめれば死ぬ。善人のふりをしても死ぬ。詰んでるだろ」
書庫に俺の声が虚しく響いた。
王家に事情を打ち明けて恭順する道はない。契約を理由に形だけ反逆者を演じるとしても、善意からだと説明できない。そもそも原作では三年後に討伐軍が来る。
逃げるか。
逃亡を王座への道筋と見なしてくれる保証はない。さらに五年後には蝕が領地を呑む。家族と領民を置いていく選択肢など、最初から数える気もなかった。
俺は三条項を書いた紙を眺めた。
縛られるのは言葉だ。
心までは縛られていない。
行動も自由だ。
ならば悪役の言葉で善行を命じればいい。誤解されようと結果が人を救うなら、前世で制度の看板をいくつも付け替えてきた俺には慣れた仕事だ。
何より契約の解除と蝕を止める方法は、おそらく同じ場所にある。
俺は契約文書を閉じた。
「つまり俺は、王国を本気で奪るしかない」
その言葉だけは心臓が少しも痛まなかった。
むしろ胸の紋章が、満足したように一度だけ温かく脈打った。




