第27話:瀉血の論理
領境の中立地帯へ白い天幕が立った。
聖蓋卿グレゴールは護衛を六人しか連れてこなかった。
六十代。白髪を短く整え、白い法衣を纏っている。病床の国王に代わり王国を動かす男だ。
「簒奪公ヴァイス」
「聖蓋卿」
向かい合って座る。
老人の視線が義眼で一拍止まり、次に義腕へ落ちた。
「噂以上に代価を払っているようだ」
「値踏みに来たのか」
「勧告に来た」
書状が差し出される。
「征服地を返上せよ。辺境公位も返し、北の修道院で隠居するのだ。さすれば一族の助命は計らう」
正確な急所だった。
リーゼ、父、家臣。原作では俺の反逆に連座して処刑される。
「断れば?」
「逆賊として討つ。一族も法に従い裁かれる」
「人質を取って勧告と呼ぶのか」
「選択肢を与えている」
声に悪意はない。
それが怖い。
「鎮めの儀について聞こう」
ギデオンが隣で息を止めた。
「王都へ来る蝕を辺境へ逸らしているな」
グレゴールは否定しなかった。
「どこで知った」
「答える必要はない」
「では事実だけを答えよう。そうだ」
あまりに簡単な肯定だった。
「千年、これで人類は滅びなかった」
グレゴールは王都地下の魔力脈を説明した。大陸中の結界は王都の中枢石へ繋がり、蝕の本流がそこを断てば各地の防壁も順に消える。百万対千という数だけではない。心臓という比喩には仕組みがあった。
「なら流れを辺境へ移す前に告知し、逃がせばいい」
「蝕は恐怖と魔力の乱れへ寄る。大移動を始めれば進路が割れ、予測不能になる」
「補償は」
「選定を知らせず行えば不可能だ」
救うため隠し、隠したから償えない。千年の理屈は自分で逃げ道を塞いでいた。
老人は静かに続ける。
「王都は人口、物流、魔力脈の心臓だ。ここが止まれば辺境も含め全身が死ぬ。辺境の犠牲は王国という心臓を守るための瀉血である」
「呑まれる村を選ぶのは誰だ」
「選ばれなかったすべてだ」
「答えになっていない」
「王都の百万と辺境の千。どちらかしか救えぬなら統治者は数を選ぶ」
「千へ説明したか」
「恐慌を招くだけだ」
「だから何も知らないまま死なせる?」
「知らずに生きられる者を増やすためだ」
論理は一貫している。
私腹を肥やす悪人なら斬れば終わる。グレゴールは千年続いた仕組みを守っているだけだ。
「お前の領も選ばれる日が来る」
「来させない」
「ひとつを救えば別のひとつへ流れる」
「なら逸らす仕組みを壊す」
「王都を呑ませるのか」
「蝕そのものを止める。ノルドで核の魔力を見た。逸らす術式と同じ波形が逆向きに流れていた。流れを押し返せるなら、分散して地脈へ戻せる可能性がある」
「可能性で百万を賭けるのか」
「確実な千人の死を永遠に続けるよりは、検証する価値がある」
「失敗すれば全てが死ぬ」
「だから王座と記録を奪う。お前たちが千年隠した観測を全部使ってな」
老人の目に初めて興味が浮かんだ。
「千年、誰も成し遂げなかった」
「俺がやる」
「根拠は」
「王座を奪う男に根拠を求めるな」
胸の紋章が熱を持つ。
「勧告は拒否する。俺は王座を奪る」
グレゴールは立ち上がった。
「ならば逆賊よ、歴史に潰されるがいい」
「歴史ごと奪ってやる」
天幕の梁で小さな記録石が光った。シュカが会話を記録している。グレゴールも気づいていたが止めなかった。自分の論理を隠す気すらない。
「公開しても構わぬ。民は結局、今日の安全を選ぶ」
「では公開を恐れる理由もないな」
「ない。お前が代案を示せぬ限りは」
天幕を出る直前、グレゴールは俺の義眼と義腕を順に見た。
「魔性の力は肉を代価にするか」
「心配してくれるのか」
「資源の残量を測っている。お前が王都へ届く前に尽きるなら、歴史が手を下す必要もない」
老人は嘲笑わない。ただ事実として俺の体を勘定へ入れた。
「左眼、左腕。あと何度払える」
「王座を奪るまで必要なだけだ」
「その果てに守る民が、お前を人として覚えていると思うか」
答えようとしてリーゼの右手を思い出す。温度を感じる側へ無意識に持ち替えた自分。王座へ着く頃、どれほど人の感覚が残るかはわからない。
「覚え方まで俺が命じる必要はない。生きていれば好きに呼べる」
紋章は痛まなかった。悪役として十分に尊大だったらしい。
グレゴールは過去に核の停止を試みた者が三人いたと明かした。一人は逸らしを遅らせ、穀倉地帯まで死土に変えて百二十万を飢えさせた末に撤回した。一人は諸侯の反乱で殺された。最後の一人は避難を公表しただけで街道が塞がり、軍の到着前に三つの都市が略奪されて、儀式を再開した。
「代案は試された。全て失敗した」
「だから四人目を止めるのか」
「千年の実績は希望より重い」
「失敗の記録が残っているなら、同じ方法は使わない。三人分の失敗を俺が奪う」
老人は首を振った。
「三人の誰もが、知らせたことで死者を増やした。ゆえに知らせず、少数を選ぶ」
「選ばれる側へ逃げ道も与えずにか」
「知らせれば逸らし先を巡って諸侯が争う。王都が落ちれば儀式、軍、物流が同時に死ぬ。辺境を守る力も消える」
「蝕は消えていない。先送りした分が次の土地へ重なっている」
義眼で見た魔力脈は、逸らすたび太くなっていた。ノルドで流路を分けた時だけ侵食が弱まった。原作知識だけではない。止める仮説は現場の観測から得ている。
「小さな観測所と避難路を全領へ分散する。王都ひとつを心臓にしない。核を壊し、蝕と正面から戦う」
「その理想で百万が死ねばどうする」
「俺も数える。だが名も知らず千人を捨てる帳簿は使わない」
一族の助命勧告は甘かった。爵位を捨てればリーゼは生きる。だが領民は別の領主へ渡り、五年後の蝕はそのまま来る。俺だけが逃げれば目的の三つ全てが崩れる。
義眼で記録石を確認する。会話は全て残った。老人の論理だけでなく、別の道を探した者が存在した証拠も。
「公表するつもりか」
「王座を奪った後にな」
「なら奪ってみせよ。それまでは逆賊の妄言だ」
最後まで筋が通っている。だから剣で斬るより厄介だった。
会見は終わった。
帰路、ギデオンが低く言う。
「あの御仁、閣下を処理する日程を早めますよ」
「先遣隊の次は本隊か」
「もっと正しい剣を使うでしょう」
「勇者か」
「おそらく」
アルヴィンの真っ直ぐな目が浮かんだ。
正しい剣は命令だけでは曲がらない。だからこそ、俺の行動を見せれば届く可能性がある。次の戦いは勇者を倒す戦いではない。歴史の側から、こちらへ一歩踏み出させる戦いになる。
その一歩を、俺の命で買うつもりはない。
帰城後、記録石を義眼へ接続して会見を見直した。グレゴールの声には揺れがない。ただ三人の失敗を語った瞬間だけ、右手の指が一度動いていた。
あの老人も犠牲を好んでいるわけではない。選び続けた結果、選ぶ制度以外を信じられなくなった。私欲の悪人なら証拠を暴けば終わる。実績を持つ善意は、数字ごと上回らなければ崩せない。
シュカが記録の複製を三つ作る。ひとつは城の金庫、ひとつはギデオン、ひとつはノルドの地下保管庫へ送った。
「旦那様が討たれても言葉は残ります」
「縁起でもない」
「生存を前提にした諜報は脆弱です」
正論だ。左眼と左腕を失った値段は、俺だけの記憶にしてはならない。
窓の外で早馬が止まる。王都からの封書を持った密使だった。
蹄の音が消えるまで、誰も口を開かなかった。




