第26話:右手と義手
義腕ができるまでの七日は失敗の連続だった。
片手では上着の袖を通せず、書類を押さえながら署名できない。食事の皿を右手で支えれば匙が持てない。眠ると左の指がまだあるように疼き、掻こうとして空の寝台へ右手を落とした。
リリウムは幻肢感覚だと説明した。
「治せるか」
「消すことはできる。でも痛みまで消すと接続部の異常に気づけない」
「なら残せ」
便利さだけを求めれば、また壊れるまで使う。違和感も保守機能のひとつだった。
捕虜の進路だけは片手でも決めた。
帰郷、期限付き労働、軍への応募の三つを選ばせる。帰郷希望者には二日分の食糧と治療証明。残留希望者には日当と仕事内容を書いた契約書。強制労働はさせない。王国側で脱走兵とされないよう「解放捕虜」の証明もつけた。
「敵へ身分証まで?」
「帰路で処刑されたら無血にした意味がない」
「捕虜へ給金を払う領主は初めて見ました」
「無給では逃げる。監視費の方が高い」
三百五十人のうち百九十二人が帰郷し、百三十一人が労働を選び、二十七人が軍へ応募した。
「敵兵まで増員に変えるとは」
ギデオンが報告書を閉じる。
「食わせて働かせただけだ」
「王国軍より待遇がよかったそうです」
帰郷する捕虜の代表が出発前に訪ねてきた。
「なぜ我々を雇い、帰すのです」
「王都へ俺の悪名を運ばせるためだ。死体は喋らん」
「では何と伝えれば」
「簒奪公は敵兵へ給金を払い、怪我を治し、武器まで返した。恐ろしい男だとな」
代表は笑いを堪えきれず肩を震わせた。
「承知しました。ありのまま伝えます」
笑うな。誓約に通じる悪評へ翻訳してから伝えてくれ。
残った工兵は契約書へ署名し、街道補修班へ入った。昨日まで敵だった技術が領地へ根を下ろす。無血戦で得たものは人数ではなく、次に殺さず勝つための仕組みだった。
王国へ戻る兵は「殺されなかった理由」を家族へ話すと約束した。
第三隊の八百はどうなったか。あちらは捕虜にしていない。武装解除のまま食糧を持たせ、王都へ帰した。
鎧も剣もなく、しかし一人も欠けずに街道を歩く八百人の列は、それ自体が布告より雄弁だったらしい。通過した宿場ごとに「魔人は八百人を殺さなかった」という話が残り、ユリウス伯爵は王都の門前で「生きて戻った敗将」として出迎えられた。
「聖蓋府は八百人の帰還を『魔性の力に敗走』とだけ記録しています。生存の理由には触れていません」
シュカが写しを机へ置く。
「兵たちの証言は」
「酒場では別の話が流れています。土は柔らかかった、矢は畑へ逸れた、医者が待っていた――数が多すぎて、揉み消しが追いついていません」
八百人の口は、八百通りの証言になる。王都が虐殺と呼びたい戦を、生き残った敵兵自身が否定していく。悪名と感謝が、同じ街道を逆向きに走っていた。
七日目、リリウムが義腕を持ってきた。
黒銀の骨格へ人工筋を張り、表面を生身に近い素材で覆う。左肩の接続部には赤い魔力回路が刻まれている。
「《簒奪の左腕》。今回も元より良くしておいたわ」
「名前が物騒だ」
「握力は生身の三倍。魔力伝導もできる。剣を握れば術式を直接流せるわ」
装着すると重みが戻った。
指を動かす。拳を握る。感覚はあるようでない。圧力を数値として理解できるが、冷たさも温かさもない。
初日は力を抜く練習だけで終わった。羽根ペンを三本折り、扉の取っ手を二つ潰し、服の釦を二つ砕き、ベルナデッタの木剣を握っただけで粉にする。
「素晴らしい膂力です」
「生活用品が耐えない。失敗作だ」
「だから調整するのよ。生身だって二十五年かけて覚えたでしょう?」
リリウムは指ごとの魔力弁を開き、卵を割らずに持つところからやり直させた。触れた感覚はない。義眼に表示される圧力の数字を見て、指を止めるしかない。
「力を入れすぎ」
「普通に握った」
「普通の値を覚え直して」
三日目には上着を一人で着られた。五日目には紙を押さえて署名できる。夜、眠る前に義腕を外すと左側の重さが急に消えた。毎晩二度、腕を失うような感覚だった。
庭を歩くとリーゼが駆けてくる。
いつものように俺の左側へ並び、手を伸ばした。
俺は無意識に体を入れ替え、右手を差し出していた。
気づいたときにはリーゼが右手を握っている。
何も言わない。
この四日、リーゼは毎朝左側へ来た。俺は書類、杖、上着を理由に右へ回った。義手で強く握るのが怖いとは言えなかった。何も言わない優しさが一番痛い。
小さな手の温度が掌へ伝わる。
「左でも握れるぞ」
言い訳のように聞こえた。
「うん」
俺から左手を差し出した。義手の指は妹の温度を感じない。握力計の数字だけが安全を告げる。
リーゼは義指の上へ小さな手を重ねた。
「お兄さまの手、こっちも好きよ。あったかくなくても」
感じないはずなのに、肩の奥だけが重くなった。
俺は空を見た。
「壊れた道具を気に入るとは変わっている」
「また本当のことを悪く言ってる」
言い返せなかった。
その午後、リリウムは定期整備を週三回と決めた。
「多くないか」
「観測と保全よ。関節の摩耗、魔力回路、握力の設定」
「握力?」
「リーゼ様と手を繋いでも痛くない値に直したから」
狂愛の解像度が妙なところで高い。
「戦闘時だけ制限を外せるようにしたわ」
「最初からそうしろ」
「日常で何を壊すか観測したかったの」
「危険な実験をするな」
接続部を締める指が一度止まる。今度は痛みを数値でなく、肩の奥の重さとして感じた。
シュカは握手まで四日かかったと記録し、ベルナデッタは義腕との果たし合いを申し込んだ。代償を悼む静けさは一刻も続かない。
夕刻、シュカの記録が届いた。
『本日の旦那様』
『左手で妹君に触れるまで四日を要しました』
『記録者は、この四日を忘れません』
紙を伏せる。
家臣団の誰も喪失を忘れさせてくれない。
それは安らぎではないが、一人で抱えるよりはましなのかもしれない。
執務室へ戻ると、壊した取っ手と羽根ペンの請求書が机に置かれていた。ギデオンは修繕費を軍事費でなく領主私費へ分類している。
「義腕の性能試験だ。研究費ではないのか」
「扉を開ける行為を軍事研究と呼ぶ国は滅びます」
反論できない。右手で硬貨袋を渡すと、シュカがその仕草まで記録した。
夕食では左手で皿を押さえ、右手で匙を使った。圧力表示を見なくても割らずに済む。リーゼは向かいから何も言わず見守り、食後に一枚の紙を差し出した。
義手の輪郭を写した絵だった。五本の指の間に、右手より少し大きな花が描かれている。
「冷たい手には、枯れない花が似合うと思ったの」
紙の感触はわからない。折らない強さだけを数字で確かめ、机の一番上へ置いた。
「装飾品は没収だ」
「はい。お兄さまのものにしてね」
また本当のことを悪く言い換えたと笑われた。
翌朝、ギデオンが珍しく前置きをした。
「閣下。王都から大物が出てきます」
「誰だ」
「聖蓋卿グレゴール。本人です」
「義腕が完成するのを待っていたような時期だな」
「七日で作る錬金術師まで計算に入れてはいないでしょう」
工房ではリリウムが会見用の設定を確かめている。
「日常設定のままにして。握り潰したら交渉にならないわ」
「相手次第だ」
冗談で返したが、リーゼに合わせた握力のまま敵と向き合うことが妙に正しい気もした。
強さの基準を妹の手に合わせた義腕で、千年の体制と握手する。壊すべきものを間違えずに済みそうだった。




