第25話:左腕の値段
避難民と第三隊の間へ馬を進めた。
街道の真ん中で降りる。
「ここから先は俺の領地だ。通行料は高いぞ」
敵兵から嘲笑が上がった。
八百人を前に一人。笑うのは正しい。
「逆賊ヴァイス! 退け!」
若い指揮官が剣を抜く。
「従わぬなら全軍で踏み潰す!」
「やってみろ」
背後でベルナデッタが避難民を丘へ誘導する。
あと少し時間が要る。
騎兵百二十、弓兵百二十、槍兵三百。残りは盾兵と直衛。義眼が装備の継ぎ目を色分けする。魔人化すれば八百人の呼吸までひとつの盤面として見える。その力を殺さない方向へ使う。
左胸へ右手を置いた。
「左腕だ。持っていけ」
紋章が全身へ走る。
左腕の感覚が鋭くなった。風、土の粒、馬蹄の震え。奪われる機能ほど消える直前に強く燃えるらしい。
「避難完了まで」
「百二十息!」
時間まで義眼へ刻む。
黒い魔力が街道を覆い、赤い光が空を裂いた。
義眼に八百人の魔力が見える。殺すなら一撃だ。
殺さないほうが難しい。
「突撃!」
騎兵百二十が槍を揃える。
俺は左手を地面へ向けた。
魔力を街道の表面だけへ流す。
土が波打ち、馬の前で盛り上がった。騎兵は速度を失って次々に柔らかな土へ投げ出され、地面へ落ちる前に風圧で草地へ流した。
骨は折らせない。
落馬地点ごとに土を膨らませる。肩を打つ者、脚を捻る者は出る。致命傷だけを盤面から消す。
弓兵が二列に展開した。矢の軌道は義眼へ赤い線で見える。左腕で空気を掴んで矢羽へ横風を当てると、百二十本が畑へ逸れ、代わりに左指の感覚が薄れた。
右手を振る。
黒い刃が走り、槍の穂先だけを切り落とした。
歩兵が包囲する。
盾兵が三列で押す。正面を割れば破片が人へ刺さる。地面へ魔力を通し、靴底の革紐だけを切った。
一列目が躓き、二列目が受け止める。重なった盾の上を走り、槍隊の中央へ降りた。
踏み込みひとつで中央へ入る。剣を握る手首へ魔力を当て、指だけを痺れさせる。落ちた武器を次の衝撃で街道外へ飛ばす。
鎧の留め具が一斉に弾けた。
義眼が継ぎ目を示し、左腕が八百本の細い魔力へ分かれる。鎧を砕かず留め金だけを外す。精度を上げるほど肩から先が冷えた。
胸当て、肩当て、兜が雨のように落ちる。
「魔人だ!」
「逃げろ!」
「逃げるな!」
若伯爵が隊を三度組み直した。無能ではない。恐怖を怒鳴り声で押さえ、自ら先頭へ立つだけの勇気もある。
「なぜ殺さない!」
「傷物は買い叩かれる。俺の資産価値を下げるな」
避難民から「慈悲深き査定だ」と声が上がった。違う。今は応援する場面ではない。
指揮官が斬りかかる。
剣を右手の指二本で挟んだ。
「これが王国の先遣隊か」
柄ごと砕く。
「帰って伝えろ。簒奪公の領で、命を捨てることすら許されなかったとな」
指揮官の鎧も崩れた。
八百人が武器を失うまで百息もかからなかった。
残る二十息で避難民が丘へ上がった。敵の負傷者は三十七。骨折二、脱臼六、残りは打撲と捻挫。完全な無傷ではない。それでも八百の遺体を作る未来は消した。
死者はゼロ。
「投降する者は座れ!」
俺の声が街道を揺らす。
一人、十人、百人。最後には全員が地面へ座った。
「負傷者から運べ! 武器を拾えば投降を取り消したとみなす!」
避難列の衛生兵が、敵兵も避難民も重症順に診る。日が高くなる頃、マルタの治療班も騎兵の後を追って着いた。
ユリウスだけが立っていた。
「私を殺せ。敗将として帰れない」
「帰れ。八百人を生かして戻した敗将として笑われろ」
「なぜ」
「俺の領で死に方まで選べると思うな」
若い伯爵は膝をついた。
避難民から恐怖と歓声が混じった声が上がる。
目的を果たした。
義眼の記録は途切れながらも、投降と治療開始まで残した。王都が虐殺と呼んでも八百人の生存者が否定する。
全身の紋章が左肩へ集まる。
腕の重みが消えた。
痛みはない。痛む場所そのものがない。左へ握っていた魔力だけが朝の光へほどけた。
肩から先が空になる。袖だけが風に揺れた。
均衡を失い、体が左へ崩れる。
ベルナデッタが支えた。
「見たか」
「はい」
「これが俺の勝ち方だ」
彼女は失われた袖を見ている。
「……次からは、私に半分お預けください」
果たし合いの文法ではなかった。
「半分では足りない」
「なら全部」
「お前まで失う気はない」
また驚いた顔をする。
「それも戦力計算ですか」
「そうだ」
「今はそういうことにしておきます」
俺を支える腕だけが強くなった。
投降後の街道は戦場より忙しかった。八百人分の武器を集め、負傷者を重症度で分け、避難民の荷車を戻す。俺は左肩を布で縛られたまま右手で指示を出した。
「骨折の二名は城の施療院へ。打撲は敵味方の区別なく診ろ。馬にも水をやれ」
「閣下がお休みください」
マルタが怒鳴る。
「戦利品の検品だ。俺の損益が確定するまで寝られるか」
避難民が深々と頭を下げた。
「命を救っていただきました」
「勘違いするな。お前たちの荷と税を守っただけだ」
「では税をお納めできるよう、長生きいたします」
もう誰も誤解してくれない。誓約だけが悪役口上として認めるという最悪の状況だった。
若伯爵は手首を縛られ、俺の空の袖を見ていた。
「殺せたはずだ」
「殺せば王国が次の隊を送る。生きて帰れば、お前が敗北を説明する」
「魔人が慈悲を語るか」
語れない。だから右手で彼の縄を切った。
「俺の恐ろしさを正確に伝えろ。八百人を生かしたまま奪ったとな」
義眼の記録石を一枚渡す。戦闘の全てが残っている。王都が虐殺と発表すれば、敵の指揮官自身が否定する証拠になる。
魔人化の熱が引くにつれ、存在しない左指が強く握り込まれたように痛む。目を向けても袖しかない。痛みだけが腕の形を覚えていた。
城へ戻る荷車の上で、左袖が風に鳴った。
門前にはリリウムがいる。
泣きそうな顔で笑っていた。
「お帰りなさい」
空の袖へ触れられる。
「腕、わたしがもらうわね」
「無いものをどうやって」
「無いから作るの。七日ちょうだい。それまで何も失わないで」
門の陰にリーゼがいた。空の袖を見ても泣かず、右手を差し出している。
右手を伸ばす前に、一瞬だけ左腕で応えようとした。肩が動き、空の袖が揺れる。リーゼはその失敗を見なかったふりで半歩右へ寄った。
「お帰りなさい、お兄さま」
「出迎えが遅い。領主を待たせるな」
「ごめんなさい。次はもっと早く待っています」
次など来てほしくない。だが口にすれば心臓が締まる。右手へ小さな温度が触れた。
左側には何もない。その差が勝利の値段だった。
その手を握るため荷車から降りた。左側の均衡がなく、最初の一歩だけ地面が遠かった。
二歩目はベルナデッタが背を支え、三歩目は自分で進んだ。
左腕は戻らない。




