第24話:破れ
「合理的ではありません」
ギデオンが地図を睨む。
第三隊は補給路を外れ、守りの薄い街道へ進路を変えた。ノルド村から移住する百二十人の列がいる。
彼らはノルドで家を失い、復興中のメルカへ移住する家族だ。三日前に申請を受けた。荷車十六台、護衛は二十四人。後方街道へ敵が出る想定はなかった。
ユリウスは第三隊八百四十のうち補給兵四十を残し、戦闘兵八百だけで街道を横切っている。ギデオンが用意した峡谷を無視し、畑を踏み越える最短路を選んだ。翌日の飢えより今日の戦功を選んだのだ。
「以後、迫る本隊は八百で統一します」
シュカが記録へ数字を刻んだ。
「避難民を人質にし、俺を誘う気か」
「功を焦る指揮官です。峡谷の罠に気づいたのではなく、戦果になりそうな相手へ飛びついた」
「合理的でない敵だけが読めない」
「私の失策です」
シュカの声はいつもどおり平坦だった。だが観測帳の今日の頁には、赤い線が一本引かれている。外れた予測を消さずに残すのが、この女の流儀だ。線の横に小さく『原因、未観測』とあった。
「反省はあとだ。距離は」
敵は半日。こちらの主力は一日。
地図の上で、間に合わない事実だけが動かない。
早馬を二度出した。敵は六刻、主力は十二刻。避難民が荷を捨てても安全圏まで七刻かかる。
「橋を落とせば」
「浅瀬を渡ります。一刻しか稼げません」
「森へ火を」
「風下が避難民です」
案を出すほど数字が固くなった。
「私なら届きます」
ベルナデッタが立つ。
「単騎で時間を稼ぎます」
「八百対一だ」
「三刻なら保ちます」
「その後のお前が死ぬ。却下だ」
「二千でも構いません」
「お前が死ぬ配置は組まん」
彼女が黙った。
驚いた顔をしている。俺も自分の言葉に気づくのが遅れた。
果たし合いを断った時とは違う顔だった。
「戦力を無駄にできないだけだ」
「……承知しました。慈悲深き所有権ですね」
声がいつもと違った。
「騎馬だけで追う。主力は後続。シュカは避難民へ進路変更を伝えろ」
「既に」
「ギデオンは第三隊の後方へ投降勧告を流せ」
「ですが届いても守り切れる戦力が」
一枚だけある。
魔人化なら先回りできる。八百人を相手にしても守れる。
代価は戻らない。
「ベルナデッタ。俺を最速の馬に乗せろ」
「御一人で?」
「お前も来い」
左眼を失ったとき、目を瞑れと命じた。
今回は違う。
「もう目を瞑れとは言わん」
ベルナデッタは胸へ拳を当てた。
「最後まで見届けます」
夜の街道を駆ける。
馬を替えながら東へ。義眼で暗闇を見通し、最短の道を選ぶ。替え馬を四頭潰せば三刻で届く。
ハーゼの中継所で二頭目へ替え、メルカから逆走させた三頭目へ移る。三人の死後に作った仕組みが百二十人を救う時間へ変わった。
「お前だけなら先へ行ける」
「閣下を置いて到着することを、間に合うとは呼びません」
差し出す機能を考える。
右眼は残せない。脚を失えば馬から落ちる。声がなければ八百人へ命令できない。
左腕。
剣は右手で握れる。
リーゼの手も右で握れる。
失っていい理由を並べるほど胸が冷えた。
失っていい場所などない。
左手で握ったリーゼの温度が浮かぶ。手綱を引く時も、服の釦を留める時も、二本あった。
選ぶとは不要なものを捨てることではない。全部必要な中からひとつを差し出すことだ。
それでも選ぶ。
夜明けの一刻前、最後の馬が口から泡を吹いた。ベルナデッタが俺を鞍から抱え下ろし、自分の馬へ前後で乗せる。
「私を盾にしてください」
「お前の背中越しでは敵が見えん」
「では閣下が前へ。私が手綱を」
果たし合いを願う女に命を預け、夜明け前の街道を駆ける。義眼が拾った遠くの魔力に敵騎兵百二十の速度と避難列の位置が重なり、間に合う差は半刻もなかった。
伝令鏡からギデオンの声が届く。
「主力を分けます。騎兵だけなら夕刻前に」
「遅い。街道封鎖は」
「若伯爵が農地へ出たため機能しません。合理性を捨てた者へ合理的な罠は効かない」
軍師の声に悔しさが混じる。責める気はない。全て読めるなら神だ。読めなかった後で次の手を作るのが人間の仕事である。
「避難民へ荷を捨てさせろ。補償は領で持つ」
「また財務官が泣きます」
「泣かせておけ。墓を数えるより安い」
心臓が縮む前に言い換える。
「荷車は俺が徴収した。所有物を壊すのも俺の権利だ」
鏡の向こうで兵が「慈悲深き徴収」と唱和した。緊迫した伝令網で様式美を守るな。
左腕を差し出すと決めても迷いは消えない。剣を握らない腕だから安いわけではない。盾を持ち、妹を抱き、倒れた者を起こした腕だ。
それでも選ぶ。俺の体なら、失うと決める権利が俺にあるからだ。
夜明け前、丘へ出た。
西の街道に避難民の列。東から第三隊の土煙。
間にある距離はもう一里もない。
「間に合いました」
「まだだ」
丘を駆け下りる直前、ベルナデッタへ伝える。
「これから見るものを忘れるな」
「目を瞑れとはお命じにならないのですね」
「ああ。俺が払った値段を、誰か一人は覚えていろ」
彼女は返事の代わりに手綱を強く引いた。朝日が差し、避難民と八百の兵が同じ視界へ入る。
守り切って初めて間に合ったと言える。
最後尾の荷車が車軸を折り、老人と子供が降りている。その向こうで騎兵が槍を揃えた。
避難列の護衛兵は円陣を組んだが、二十四人では荷車の全周を塞げない。老人が子供を荷台の下へ隠し、御者は積荷の種麦を道へ捨てて柵を作る。誰も命令を待っていなかった。
円陣の内側で、見覚えのある顔が振り返った。ノルドの井戸端で、王都の役人は来もしなかったと言った老婆だ。今は孫の手を引き、荷台の下へ押し込もうとしている。
老婆が丘の上の俺を見つけ、深く頭を下げた。逃げろと言いたい。言えば心臓が締まる。
代わりに義眼の光を一度だけ強くした。ノルドの者なら誰もが見慣れた、征服者の金の義眼だ。老婆は小さく頷き、孫を抱えて丘を登り始めた。
若伯爵の使者が白旗を掲げる。
「簒奪公を差し出せば、避難民の安全を保証する!」
合理的ではないが卑怯一辺倒でもない。奴は俺を討つ功を欲し、民間人を交渉材料として使っている。ここで俺が隠れれば、次は別の村が狙われる。
「聞いたな。俺一人が目当てらしい」
「閣下を渡す者はいません」
護衛兵が即答した。
「命令だ。列を丘へ上げろ。ここへ残れば俺の戦利品を横取りした罪で罰する」
兵は歯を食いしばって従う。悪役口上は、退かせたい者の背中を押す時だけ便利だった。
ベルナデッタが俺の左袖を一度つかみ、すぐ離した。
「戻った後、この腕の分まで私へ剣を預けてください」
「戻ってから聞く」
戻る前提の言葉を交わし、街道の中央へ歩く。八百の呼吸と鎧の擦れる音が近づいた。
「全員を丘へ。荷は捨てろ」
「閣下は」
「八百人へ通行料を請求する」
朝日に左手をかざす。五本の指は見納めになるとも知らず、いつもどおり動いた。
指を一本ずつ曲げ、開く。温度も痛みもある、生身の左手だった。その全てを覚えてから、敵へ向き直った。
選んだ値段を、もう数え直す時間はない。
敵は目前だ。




