第23話:噂の戦
第二隊へ噂を届けるのは簡単だった。
兵の集まる酒場で旅商人が囁く。
「簒奪公は蝕を素手で退けた魔人だ」
宿の女中が付け足す。
「左眼は金色に光り、見られた者は夜に呪われる」
逃げ帰った第一隊の兵が証言する。
「逆賊の陣では捕虜を太らせてから使う」
最後だけ方向がおかしい。
噂は同じ形で二度流さない。商人は東の宿で金の眼を語り、女中は北の村で鎧だけ奪われた兵を語る。第一隊の帰還兵には頼まない。彼らが見た温かい鍋のほうが作った怪談より奇妙だからだ。
三日で話は変形した。
『魔人は兵を殺さず地下へ連れ去る』
『黒い軍へ入れば二度と空腹にならない』
『金の眼に名を知られると家族まで征服される』
「後半はどこから出た」
「恐怖と願望です。兵は殺されたくない。同時に食事と給金を欲しがっています」
シュカは伝播経路を地図へ記す。内容より、どの隊で何が受け入れられたかが重要だった。
「噂は事実の断片ほど強いです」
シュカが言う。
「旦那様が魔人、蝕を退けた、義眼が光る。すべて真実」
「呪いは嘘だ」
「社会的な呪いなら可能です」
「するな。斥候を帰し、見たものを話させるだけだ。危険へ誘導して記録を作るな」
「契約条件を覚えておいでですね」
正式契約で決めた境界を確認する。シュカは不満そうだが、噂のために事件を起こすことはしなかった。
夜、第二隊の進路にある廃村へ入った。
義眼の魔力光を強くする。瞳が金色に発光し、暗闇へ一本の線を引いた。
敵の斥候が森へ入る。
森には三本の退路を残し、罠も弓兵も置かず、恐怖に駆られても崖へ落ちないよう白い石を並べた。
「親切な怪談ですね」
「死人は証言しない」
闇の奥で敵が息を呑む音がした。
俺は木々の間を横切り、一度だけ姿を見せる。
「魔人……!」
斥候が弓を向けた。
背後へベルナデッタが立つ。
「いつから――」
彼女の木剣が鎧の留め具だけを切った。胸当てが落ちる。
斥候は悲鳴を上げて逃げた。
「斬ってはいけないのは難しいですね」
「楽しそうだな」
「服だけを斬るのも技術です」
噂が実話になった。
斥候は胸当てを抱えて陣へ戻った。「剣が見えなかった」と繰り返す。ベルナデッタは一度しか振っていない。嘘ではない。
オルフ隊長は男を臆病者として縛った。周囲は証言を否定するのでなく、隊長が真実を隠していると考えた。
「強く否定するほど広がります」
魔人を恐れて聖蓋府へ救いを求めた男だからこそ、今は恐怖を認められない。鞭の音を聞くたび兵は隊長も怯えていると確信した。夜番は互いの名を呼ばなくなった。
翌朝、第二隊では進軍拒否が起きた。
隊長は鞭で兵を前へ出そうとする。だが夜ごと森で金の眼が光り、見回り兵の鎧だけが消える。
「悪名は資産だ。利子までつく」
俺は斥候報告を読む。報告の中の魔人は夜ごと森を飛び、火まで吐いていた。実物より働き者だ。
噂の魔人は何度暴れても何も減らない。だが本物の魔人化は体の機能をひとつずつ奪う。残り回数など数えたくない。
だから偽物の魔人で戦を終わらせる。
三夜目を前に、シュカは矢羽を納める職人へ先回りした。第二隊の予備矢だけを訓練用の丸矢尻へ替え、実戦用の矢束には封を切らせないよう偽の湿気印を付ける。ベルナデッタは森の枝へ細い鋼線を張り、危険な高さへ向いた弓だけ弦を切った。
「これで誤射しても死者は出にくい」
「出にくい、では困る」
「致命弾は私が斬ります」
三夜目、恐慌した兵が木々の影へ矢を放った。
残る実戦矢には赤い印がある。森の左右に潜んだベルナデッタ隊が飛翔を見て、致命弾だけ盾と木剣で落とす。
「右、三本!」
「落とした!」
全てを防げるとは思わない。マルタの治療班も退路で待たせた。
反対側の部隊が襲撃と誤認して撃ち返す。俺は金の光を高い枝へ走らせ、射線を頭上へ向けた。誤射は半刻で収まる。死者ゼロ、腕や肩へ矢を受けた者が十一人。治療班が撤退路で収容した。
「敵へ治療を?」
「呪いで死んだと報告されたら困る」
鏃を抜き、包帯と薬を渡す。彼らは金の眼より、待ち構えていた施療院を恐ろしがった。
隊列は崩れ、夜明け前に総撤退した。
王都へ戻った報告書にはこうある。
『魔人の呪詛により統制不能』
『森そのものが逆賊に従った』
俺は森へ何もしていない。
正確には噂、退路、練習矢、治療班を置いた。魔人の力ではなく人間の準備で森を味方へ変えた。
「負傷十一、死亡ゼロ。こちらは木剣で指を挫いた者が一名です」
悪名だけでは死者ゼロにならない。最後は地味な確認と、暗闇で矢を見続けた兵たちの腕が支えた。
「勝手に強くなっていますね、旦那様」
「噂の中だけならな」
撤退した第二隊を追わず、負傷者の集積所だけを森の出口へ置いた。白布、飲み水、骨を固定する板。こちらの紋章は外し、誰が使ってもよい形にする。追えば戦い、逃げれば追わない。その意思を目で理解させた。
夜明け後、隊長だけが部下二十人を連れて戻ってきた。剣は鞘に納めたままだ。
「負傷兵へ薬を置いたのは貴様か」
「呪いだ。生き延びた者から治療費を搾り取る」
胸は痛まない。完璧な悪役語訳である。
「請求書は」
「王都へ送る。お前たちは負傷者を運べ」
隊長は俺の義眼を見た。恐怖を消せてはいない。それでも剣を抜かず、担架へ手を掛ける。
「報告書には魔人と書く」
「好きにしろ」
「同時に、死者を出さなかったとも書く」
それはグレゴールにとって都合の悪い一行になる。魔人の噂は討伐の大義名分になるが、無血の事実は兵の心へ小さな棘を残す。
担架を持ち上げる前に、隊長は一度だけ森の奥を振り返った。
「子どもの頃、故郷が蝕に呑まれた。黒い森から出てきたものは、みな何かを奪っていった」
「俺も奪う。王座をな」
「……森から出てきて、誰の命も奪わなかったのは貴様が初めてだ」
隊長はそれ以上何も言わず、部下と担架を担いで街道へ戻った。縛られていた斥候の縄は、いつの間にか解かれていた。
シュカが回収した矢を数えた。丸矢尻四百十二、切断した弦三十七、ベルナデッタが斬った実戦矢十一。偶然の死者ゼロではない。職人、諜報、剣士、救護班が積み重ねた結果だ。
「本物の魔人化は使わずに済みました」
「残弾扱いするな」
「では未徴収の旦那様部位と記録します」
もっと悪い。リリウムへ渡すな、その記録。
そのシュカへ、新しい速報が届いた。
彼女の顔から笑みが消える。
「第三隊、進路を変更」
「峡谷ではないのか」
「ノルド村から移動中の避難民を見つけました」
地図へ赤い線が引かれる。
第二隊を追うため森へ散っていた斥候を呼び戻す。それでも第三隊との間には丘が二つあり、伝令だけで一刻を失う。噂は兵を止められたが、避難民の前へ立つ壁にはならない。
ベルナデッタが剣の血脂を拭う必要もない布で刀身を拭いた。
「次は演出では済みません」
「わかっている。馬を出せ」
「避難民は百二十、護衛は二十四。接触まで半日です」
悪名で止まらない敵には、別の値段を払うしかなかった。
紋章が左胸で、次の支払いを待っていた。




