第22話:兵糧の戦
第一隊が最初の宿場へ着く三日前から、俺たちは食糧を買っていた。
第一隊の進路上にある五つの宿場。小麦、干し肉、豆、酒、馬の飼葉まで時価の倍で買い取る。
「こんな値で本当に?」
商人が疑う。
「戦時は物価が上がる。先物買いだ」
「さすが簒奪公様」
実態は兵糧攻めである。
買った食糧は征服地へ運び、住民用の備蓄に回す。商人は儲かり、村は潤い、敵だけが食えない。
商人組合の長だけは最初、全量販売を拒んだ。
「軍が力ずくで奪えば、町の者が飢えます」
「だから先に買う。敵に奪われた分も帳簿に載せろ。護衛兵を貸す」
価格は開戦前の水準へ固定した。商人は倍額を得て、住民は同じ値段で買える。差額は領の予備費から出る。
「財政は痛みます」
ヘルムートが帳簿を示す。
「予備費の四割です」
「人を殺さない値段だ。払え」
「投資として記録します」
棚を空にはしない。住民一人につき二週間分を領の倉へ移して世帯札で配給し、商人には売却量の二割を隠し在庫として残させた。
「敵に見つかれば没収されますよ」
「奪われた分は三倍で補償する。村長と会計官が証人だ」
「そこまでして儲かるのですか」
「殺し合うよりはな」
荷車には災害備蓄の札をつけ、ハーゼとメルカへ運ぶ。戦後も腐らない豆と塩を中心に選んだ。
近隣商会が値をつり上げようとしたが、ヘルムートが過去三年の相場表を店先へ貼った。
「倍額は基準相場の倍です。今日言い出した値の倍ではありません」
強欲な商人が沈黙する。敵だけでなく味方の暴走も止めなければ無血戦は成り立たない。
第一隊は二日で鈍った。
斥候が報告する。
「宿場に食糧なし。徴発しようにも住民は既に避難。馬の飼葉が尽き、荷車を兵が引いています」
「隊長は?」
「規律を守らせていますが、兵が夜中に畑を掘っています」
収穫前の畑も買い上げ済みだ。残したのは家畜の餌にもならない苦い根菜だけ。
二つ目の宿場でも、三つ目でも同じだった。兵の鍋は湯ばかり増えていく。
三日目には行軍速度が半分になった。
ハインツ隊長は強制徴発を禁じた。分析どおりだ。代わりに王国の支払証書を出したが、宿場の者は誰も売らない。
「王国軍の証書だぞ」
「去年の街道修繕分すら払われていません」
王国が積み上げた不払いを商人が思い出しただけだ。
夜には兵が畑を掘り、苦い根菜を齧って腹を壊した。脱走者十二、歩けない馬三十七、放棄された荷車八台。
「水だけは止めるな」
「兵糧攻めなのに?」
「渇けば村を襲う。腹が減った人間は交渉できる」
井戸番には敵兵にも一杯は飲ませるよう命じた。生きて投降できる余地を残すためだ。
兵は空腹で怒り、馬は動かない。指揮官が進めと命じても、胃袋は命令を聞かない。
「布告を出す」
『投降者には温かい食事を与える』
『捕虜は労働力である。飯代は前払いの給金として記録する』
鍋を街道から見える丘へ並べた。
肉と豆の煮込みの匂いを風へ流す。
鍋の手前には武器を置く白線、その先に身体検査、治療、食事の天幕を並べた。雪崩れ込んでも踏み潰さないよう二十人ずつ通す。
マルタが最初の椀を食べた。
「毒見です。神の加護よりわかりやすいでしょう」
「聖職者が言う台詞か」
「破門されましたので」
「逆賊の罠だ!」
敵隊長が叫んだらしい。
最初に投降したのは馬丁だった。
若い男が短剣を白線へ置く。敵陣から矢が飛び、ベルナデッタが木剣で叩き落とした。
「投降者を射る軍へ戻りたい者は、食べてから戻れ!」
拡声術式で街道へ流す。
二人目は足を挫いた兵。三人目は彼を肩で支える同郷の男。十人が百人になり、夕刻には三百五十人が武器を置いた。ハインツ隊長も味方へ射る命令までは出せなかった。
残りは隊長とともに撤退した。
最初に白線を越えた馬丁は、トビアスという十六の少年だった。椀を受け取る前に、自分の担当だった馬の数を報告する。歩けない馬が十一、まだ歩ける馬が九。飼葉さえあれば九頭は助かる、と。
「馬の分も飯を出せと言っているのか」
「いえ。ただ、数だけはお伝えしておかないと」
俺は厩番を呼び、敵陣の外れで倒れかけている馬へ飼葉を運ばせた。馬は徴税対象ではない。だが戦が終われば街道を走る。
トビアスは椀を抱えたまま、九頭が飼葉へ首を伸ばすのを最後まで見ていた。
撤退兵へも一日分の乾パンを残した。追撃を恐れて走れば街道の家を荒らす。袋には「一人ひとつ。二つ取れば同僚が飢える」と書く。
「敵へ兵糧を?」
「領外へ出す通行料だ」
そうじゃない。腹を空かせた兵にも家がある。心臓へ伝わらない言葉だけを腹の中で吐いた。
ハインツ隊長は自ら配り、負傷者を荷車へ乗せて退いたという。敵将にも守る規律がある。それを折らずに帰したほうが次の話が早い。
一度も剣を合わせていない。
捕虜たちは配給列で困惑していた。
「毒は入っていないのか」
「毒入りの労働力に価値があるか」
「俺たちを奴隷に?」
「街道修繕を手伝えば帰す。給金も出す」
「捕虜に給金?」
「飯代を引いた残りだ」
一人が煮込みを口へ運び、泣き始めた。
「聞いてた逆賊と違う」
「同じだ。俺は王国を奪う」
「でも飯がうまい」
反論になっていない。
捕虜名簿には出身地、家族、徴募か志願かを記した。街道修繕は一日六刻。治療中は働かせず、給金から引くのは食費だけだ。
「奴隷より面倒ですね」
「奴隷は逃げる。給金を待つ人間は翌朝も来る」
夕方には元土木兵が壊れた側溝の直し方を申し出た。敵兵だった男が、その日のうちに征服地を良くしている。
投降所では武器を一本ずつ番号札と交換した。帰郷者には返却し、雇用を望む者の剣は倉庫へ預ける。捕虜だからと人格まで取り上げれば、いつか背中へ刃が戻ってくる。
「王国へ帰れば脱走罪です」
若い兵が粥の椀を持ったまま言う。
「なら王国軍へは俺が文書を出す。お前たちは俺の捕虜であり、交換が成立するまで帰還させたとな」
「それは虚偽では」
「簒奪公が捕虜をどう扱おうと俺の勝手だ」
兵は困った顔で頭を下げた。感謝される筋合いではない。将来こちらへ門を開ける人間を増やす投資である。そういうことにしておけ、心臓。
翌朝、五宿場の代表を集めて買い占めを解いた。空いた棚へ備蓄を分配し、領の兵が三日間だけ店先を守る。敵軍が去った後に商人だけ儲け、住民へ高値を押しつければ無血戦の意味がない。
「予備費を四割使いました」
ギデオンが会計帳を突きつける。
「街道補修を二月遅らせますか」
「捕虜の工兵を雇う。材料費だけで進めろ。賃金は遅らせるな」
「実に強欲です。金ではなく人材を回収なさる」
「褒めていないな」
「忠誠なき軍師ですので」
経済戦は血の代わりに金を流す。会計帳の赤字は、墓標よりずっと軽かった。
ギデオンが次の駒を進めた。
「第一隊、無力化。次は第二隊です」
「噂をひとつ届けます」
シュカが義眼を見る。
金で買った一勝の次は、金では測れない恐怖を使う番だった。
「簒奪公は魔人であるという、本当の噂を」
次の戦場には、兵糧も剣も要らない。
シュカが記録帳を開き、短く書いた。
『噂、明朝より。経路四』
羽根ペンの音だけが、天幕に残った。




