第15話:監察は歓迎する
聖蓋府の監察官は予告なく来るのが作法らしい。
門番の報告が届いた時、一行はもう外門をくぐっていた。馬四頭、書記二人、荷は木箱がひとつ。武装はない。
「シュカ」
「予定より六日早いです」
「予定を知っていたのか」
「面接の日に差し上げた文書へ、巡察順路が書いてありました」
『東方逆賊ヴァイス・レーゲンハルトに関する監察計画』。焼却炉行きの束から抜かれた紙が今日から現実になる。
「読んだのは俺だけか」
「休暇中のギデオン様には寝台へ、ヘルムート様には帳簿室へ写しを」
「勝手に配るな」
「配らなければ、今朝の膳が二人分足りませんでした」
厨房から湯気が上がっている。監察官の分まで数えてあった。
こういう先回りをされると、叱る材料が消える。
◇◆◇
主席監察官はカルヴァスと名乗った。五十がらみの痩せた男で、灰色の外套へ聖蓋府の水盤章をつけている。
「蝕対策の実施状況を確認しに参りました」
「歓迎する」
「……歓迎、ですか」
「監察は無料の点検だ。俺が金を払って人を雇い、粗を探させる手間が省ける」
紋章は沈黙した。
半分は本音である。外の目で見て崩れない仕組みでなければ、俺が死んだ後に残らない。
「では、帳簿から拝見しても」
「どうぞ」
「順番を選ばせていただけるのですか」
「どこからでも。逆賊の家に、見せられない棚はない」
カルヴァスの眉が動いた。断られる前提で来た人間の顔だった。
◇◆◇
帳簿室でヘルムートが立ち上がった。
監察官は挨拶より先に棚の高さを見ている。年度別、部門別、月別と並ぶ棚の、背表紙の色が揃っていることを、この男は褒めなかった。
「揃いすぎておりますな」
「意味を伺っても」
「整えた帳簿は整えた者の見せたい形をしています」
ヘルムートは表情を変えなかった。
「では、こちらを」
彼が引いたのは補助簿だった。日付順、部門なし、訂正線がそのまま残っている。
「清書前の原簿です。訂正は消さず、上から線を引いて理由を書きます」
「見せたくない箇所は」
「線の下に残っています」
カルヴァスが座った。
二刻、彼は補助簿をめくった。書記の一人が数字を写し続ける。
やがて指が止まる。
「三月の兵糧支出が前年の倍です」
「食事を増やした」
「なぜ」
「病兵一人の治療費は肉一月分より高い。損得の話だ」
「その計算は」
「こちらに」
ヘルムートが一枚を出した。離職率、病欠日数、治療費、装備の再支給費が横へ並んでいる。
「閣下の指示ですか」
「指示は肉を増やせ、でした。表は私が作りました」
「命じられていない仕事を」
「命じられた仕事の理由を、後から誰かが聞くはずでしたので」
カルヴァスはその一枚を写させた。
◇◆◇
施療院ではマルタが順番の札を並べていた。
王都式の身分別診療を廃し、症状の重い順にしてある。
「爵位の記載がありませんが」
「死にそうな順です」
「王国の規則では――」
「規則を書いた方は、この部屋で誰も看取っておられません」
破門された老聖職者が笑顔でそう言った。
監察官は反論せず、寝台の間隔と炉の位置を測っている。
「換気口が二つ増えていますね」
「熱病が出た月に開けました」
「記録は」
「壁に」
柱の一本へ細い刻みが並んでいた。増えた月と減った月が見える。
カルヴァスは指でその刻みをなぞった。
「これは何のために」
「忘れないためです」
「誰が」
「私が」
◇◆◇
二日目の午後、演習場でベルナデッタが監察官の前へ木剣を差し出した。
「一手、お願いできますか」
「私は文官ですが」
「監察には実地が要ると伺いました」
「帳簿の話です」
「では帳簿を賭けましょう」
止めた。
書記の二人が本気で青くなっていたので、たぶん間に合った。
「団長。監察官を斬れば討伐の名分になる」
「峰打ちなら」
「名分になる」
「では閣下が代わりに」
「話を戻せ」
カルヴァスは灰色の外套の埃を払い、何も見なかった顔で歩き出した。
その背中へ、書記の一人が小声で言うのが聞こえた。
「主席。こちらの領は、その」
「言うな」
「はい」
言われなくても、報告書の厚みは変わる。
◇◆◇
三日目、カルヴァスが執務室へ来た。
木箱から出したのは彼自身が三日でまとめた所見である。
「不備を七件見つけました」
北塔の観測記録に六日分の欠落。捕虜名簿の写しが一部しか作られていない。避難路の標識が旧表記のまま。井戸の封印手順が口伝で紙になっていない。
どれも本当だった。
「直す」
「弁明はなさらないのですか」
「見つけてもらった。礼を言う」
紋章が疼く。
「次の監察で同じ指摘を受ければ俺の恥だ。恥は税収を下げる」
疼きが引いた。
カルヴァスは所見を裏返し、しばらく黙っていた。
「私は、これを書きに来たのではありません」
「知っている」
引き出しから監察計画の写しを出す。
男の顔から表情が抜けた。
「……どこで」
「焼却炉の手前だ。文句は聖蓋府の紙の始末係へ言え」
「それをお持ちのまま、私に棚を開けたのですか」
「隠す物があるなら、最初から順番を選ばせない」
計画書の第三項には、こうある。
――当該領において統治の逸脱を示す事実を収集し、討伐の名分に足るものを報告すること。
「逸脱は見つかりましたか」
「いいえ」
カルヴァスは正直に答えた。
「見つからないことが、私の報告では最も厄介です。逆賊の領が王国のどの領よりも整っている。そう書けば、私が買収されたと読まれます」
こういう国だから、俺は簒奪しなければならない。
「では、こう書け。簒奪公は民を徴税対象として維持しており、その効率は王国の平均を上回る、と」
「同じ意味です」
「意味は同じでも、書いた者は疑われない」
カルヴァスが初めて笑った。乾いた笑いだった。
◇◆◇
一行が発った後、ヘルムートが所見の写しを持ってきた。寝台のギデオンと相談済みだという。
「七件のうち五件は今月中に直せます。残る二件は、井戸の封印手順を紙にするのに十日、標識の作り替えに一月」
「やれ」
「監察のためにですか」
「次に来るのは監察官ではない」
ヘルムートが顔を上げた。
「軍ですか」
「あの男が整っていると書けば、王都は放っておけない。潰す口実がないなら、口実を作りに来る」
窓の外で、監察官の馬が街道の角を曲がった。
シュカが観測帳を閉じる。
「旦那様。所見に八件目がありました」
「七件と言っていたぞ」
「書いて、消しておられました」
差し出された紙の裏に、薄い筆圧の跡が残っている。
――当該領主は、指摘を歓迎した。私は十九年この職にあるが、初めてである。
消した理由はわかる。書けば、この男が処分される。
「燃やせ」
「保管します」
「命令だ」
「保管したうえで、燃やしたと記録します」
契約の穴がまたひとつ増えた。
◇◆◇
その夜、ヘルムートが執務室の扉を叩いた。
手には補助簿の写しがある。
「閣下。ひとつ申し上げます」
「言え」
「今日私が出した数字は、監察官を黙らせるためのものではありませんでした」
「知っている」
「ご存じでしたか」
「命じられていない仕事の理由を後から聞かれる、と言っただろう。あれは俺へ向けた台詞だ」
ヘルムートは少し驚いた顔をして、それから頭を下げた。
「私は正直すぎて追われました。ここでは、正直が仕事になります」
「安く雇っただけだ」
「存じております。それでも、値段の話をしない日が来たら、その時は辞めます」
この男はほかの誰とも違う言い方をする。
忠誠を誓わないと言いながら働く軍師。首を差し出せと言いながら守る騎士。観測すると言いながら守るメイド。作品だと言いながら守る錬金術師。
ヘルムートだけが思っていることをそのまま口にする。
紋章が疼く前に、俺は書類の山を彼の腕へ載せた。
「五件、今月中に直せ」
「六件でも」
「働きすぎは罰金だ」
扉が閉まる。
机の上に、消された八件目の写しが残っていた。




