第14話:観測者の正式雇用
昨夜シュカへ渡すはずだった契約書は、署名欄を空けたまま執務机の引き出しに入っている。
採用すると口では告げた。だが聖蓋府の監察者を条件も詰めず城内へ置けば、ギデオンに本気で胃へ穴を開けさせる。そこで一晩だけ仮滞在を認め、今日あらためて正式面接をすることにした。
その一晩で彼女は客間の窓の軋み、夜警の交代時刻、厨房の余り物まで記録していた。追い出す判断が遅すぎた気もする。
「まず素性を話せ」
執務室にシュカを座らせた。
彼女は背筋を伸ばし、膝の上へ手を重ねている。メイドとして完璧な姿勢だ。雇っていない点を除けば。
「シュカ。姓はありません。大陸各地に二百十三名の協力者がおります」
「協力者?」
「宿屋の女将、宮廷書記、商人、御者、墓守。人の話が集まる場所に置いた耳です」
「諜報網ではないか」
「そうとも呼びます」
「二百十三人すべてがお前に忠実なのか」
「いいえ。忠実な者は少数です。宿屋の女将は客の忘れ物を返すついでに話します。御者は道中の退屈を紛らわせたい。墓守は埋葬数を誰かに覚えてほしい。私はそれぞれが話したい形で聞くだけです」
シュカは机へ王都近郊の地図を広げた。赤い点が宿場、青い線が荷馬車の道、黒い印が墓地を示す。
「では見せろ。今朝の王都で何が起きた」
「塩商人の荷が通常より三割多く東へ出ました。王宮書記が昨夜だけ蝋燭を四本使い、東門の厩舎では軍馬用の蹄鉄が不足しています」
「別々の噂だろう」
「三つを重ねれば、王都が東征の命令書を作り兵站を動かしたと読めます」
ギデオンが棚から今朝届いた密書を抜いた。封を切る。東方討伐軍の準備を命じる内容だった。
「到着したばかりの密書と一致しています」
「偶然です」
シュカはそう言ったが、偶然を二百十三本も束ねれば立派な諜報網になる。
ギデオンが内部文書を確認している。紙質、筆跡、印章の欠けまで見た末に顔を上げた。
「本物です。私より怖い」
「お前が真顔で言うな」
シュカは次々に書類を並べた。
勇者アルヴィンは西部の蝕へ移動中。ノルド旧領主は王都で責任を俺へ転嫁する陳情を準備。近隣三領のうち二領は中立、一領は聖蓋府へ密使を出した。
求める前から全部揃っている。
「なぜ俺の城に入り込んだ」
「旦那様の観測に、最も都合のいい位置がここでしたので」
「いつから観測している」
「王都瓦版へ角つきの似顔絵が載った日から」
転生前だ。
「原作のヴァイスも?」
「げんさく?」
「何でもない」
俺は試しに偽の予定を口にした。
「明日の午後、俺は北門から巡察へ出る」
シュカは瞬きもせず記録紙へ線を引く。
「虚偽。北門の跳ね橋は補修中です。巡察用の馬も南厩舎へ移されました。旦那様は私が発言だけを記すか、周辺事実まで照合するか試しています」
「不敬罪を恐れないのか」
「事実が爵位へ遠慮すると観測ではなくなります」
扱いにくい。だからこそ使える。
危ない。
シュカは革張りの冊子を開いた。
『観測記録・簒奪公ヴァイス』
『本日の旦那様』
『起床、六時二分。義眼装着、六時七分。リーゼ様を右眼で確認、一回』
『施療院の予算を増額。理由を「徴税対象の保全」へ言い換えるまで四・二秒の逡巡』
『尊い』
「最後は記録ではない」
「観測者所見です」
「本人の前で読み上げるな」
「今後は提出だけにいたします」
「提出もしなくていい」
ギデオンは笑いを堪えていた。
「雇用条件は」
「旦那様の記録の独占権を」
「給金は?」
「記録が給金です」
搾取する余地がなくて逆に困る。
「住居と食事は出す。給金も規定額を払う。無給労働は認めん」
「観測時間に上限は?」
「勤務時間外は休め」
「呼吸と同じなので」
「なら呼吸しながら寝ろ」
ギデオンが契約条項を読み上げた。記録の保管庫は二重鍵とし、片方を家令、片方をシュカが持つ。緊急情報は時刻を問わず報告する。日常の記録は朝夕二回にまとめ、食事中の報告は禁止。違反一回につき休憩を一刻増やす。
「罰が休憩なのですね」
「お前には効くだろう」
「恐ろしい職場です」
無表情のまま言うので冗談か判別できない。
シュカは少し考え、契約書へ署名した。
俺から出す条件はひとつだ。
「身内と民には針一本向けるな」
シュカが初めて楽しそうに目を細めた。
「元より。観測対象の環境保全は、観測者の義務です」
「外敵にも勝手な処分はするな」
「善処します」
「守ると言え」
「旦那様の許可なく命を奪いません」
社会的な命までは含んでいない気がした。
「もうひとつ。観測対象を危険へ誘導して記録を作るな。火をつけて消火の英雄を撮るような真似も禁止だ」
「事実は作らず、起きた事実を拾う。承知しました」
「第三者から買った情報は出所の確度を三段階で示せ。推測を事実の顔で持ってくるな」
「旦那様は情報の扱いをご存じなのですね」
前世で根拠のない報告書に何度殺されたと思っている。
俺が署名し、シュカも姓のない名を小さく記した。昨夜保留した契約がようやく成立する。
直後、彼女は廊下へ出て庭師から剪定鋏を借りた。窓の外を一度見ただけで、南塔の見張りが規定位置から二歩ずれていると指摘する。確認させると死角には小さな荷車が一台隠れていた。中身は盗品ではなく厨房へ納める玉葱だったが、侵入経路の証明には十分だった。
「初仕事です。南塔の柵を半間延ばしてください」
「雇われて五分で城の欠陥を見つけるな」
「昨日から観測していましたので」
仮滞在の時点から働いていたらしい。
正式雇用したその日から情報の速度が変わった。
王都の会議内容が翌朝には届く。商人の価格操作も、国境の兵の増減も、報告を求める前に机へ載った。
ギデオンは情報を選別し、必要なものだけ俺へ回す。
「全部読めば寝る時間がなくなります」
「お前が全部読んでいるだろう」
「私は忠誠を誓っていないので勝手に働いているだけです」
「理屈になっていない」
三日後、休暇制度の第一号適用者が出た。
ギデオンである。
執務室の床に倒れていた。机には徹夜でまとめた捕虜配置案と征服地の予算書。意識はあるが立てない。
「何時間寝ていない」
「数えていません」
「シュカ」
「五十二時間です」
「なぜ止めなかった」
「倒れる時刻を観測しておりました」
「止めろ!」
医師の診断は過労と軽い栄養失調だった。
「三日休め」
「私は駒であって貴方の部下では」
「駒なら黙って整備されろ」
「作戦が」
「ヘルムートへ渡した。お前が抱え込めば後継が育たない」
ギデオンが初めて反論を止めた。
「口頭では渡せません。北倉庫の鍵、捕虜名簿、未決裁の徴税猶予申請が――」
「もう受け取りました」
戸口にヘルムートが立っていた。三枚の一覧を掲げる。
「昨夜、閣下の命で業務を棚卸ししました。優先順位もつけています。捕虜配置案は明日、予算書は私が一次確認、徴税猶予は期限順に処理します」
「私の注記を読めますか」
「字が潰れている部分以外は」
「どこです」
「ほぼ全部です」
ギデオンが傷ついた顔をした。だが仕事を奪われた不安より、渡せる相手がいた安堵のほうが勝ったらしい。
寝台へ運ばれる彼へ休暇命令書を載せる。
「違反すれば罰金だ」
「横暴な雇用主ですね」
「逆賊だからな」
その夜、ヘルムートはギデオンの枕元へ報告書を一枚置いた。五十二時間分の仕事が七行に縮んでいる。
「短すぎませんか」
「判断が必要な箇所だけです。経過を全て読ませるのは報告者の怠慢かと」
「言いますね」
「正直すぎて追放されましたので」
二人の視線がぶつかり、ギデオンが僅かに笑った。
「明日から財務会議へ同席してください」
後継を育てろという命令は、俺が言わずとも動き始めた。
数日後、城下を歩いていて違和感に気づいた。
以前は王都から来た商人が俺を「成り上がり」と陰で呼んでいた。いまは誰も言わない。
酒場で悪口を広めていた吟遊詩人も姿を消した。
「……そういえば最近、俺を成り上がりと呼ぶ声を聞かない」
窓の外にシュカがいた。
庭木の手入れをしていたはずなのに、俺の視線へ気づいて静かに一礼する。
剪定鋏が朝日に光った。
雇用条件をもっと細かく書くべきだったかもしれない。
昼には彼女の情報を三件照合した。三件とも関所記録や受領簿と一致する。
噂だけなら誰でも運べる。外れた時にどこが間違ったか追える記録は、人間一人より長く働く。
「二百十三人にも同じ書式を使わせるのか」
「文字を書けない方もいます。女将には結び目、御者には車輪の傷、墓守には花の色で急ぎを示してもらいます」
「統一すれば網ごと見つかる」
「地域ごとに変え、私がここで揃えます」
机には情報源、確認方法、確度、反証の四欄がある。外れた噂にも灰色の印をつけていた。
「なぜ残す」
「内容が嘘でも、誰かが嘘を流した事実は残ります」
監察者というより記録そのものに仕える人間だ。
夕方には南塔の柵が直り、侵入試験の荷車を夜警が門前で止めた。
「成果を一日で出したな」
「継続雇用に有利な事実を作りました」
「事実を作るなと言ったばかりだ」
「これは労働実績です」
また契約の穴だった。
油断ならない。
明朝、条文をひとつ増やすと決めた。
机の上には、署名の乾いた契約書が一枚だけ残っている。




