残響
三十六日目
朝。
薄曇りの空がカーテン越しに滲んでいる。
部屋は静かだ。
静かすぎる。
蓮は目を開けたまま、天井の染みを見つめる。
呼ぶのが怖い。
返事が遅れるたび、心臓の内側を削られる。
だが呼ばなければ、何も始まらない。
息を吸う。
肺が冷たい。
「鈴」
声は震えていない。
震えているのは指先だ。
返事は来ない。
三十秒。
一分。
一分三十秒。
鼓動が速くなる。耳鳴りがする。
二分。
部屋の空気が重くなる。
そのとき、ようやく。
「いる」
届いたのは声というより、かすかな振動。
空気が微かに揺れただけのような音。
蓮は笑おうとする。だが喉が詰まる。
「遅すぎる」
自分でも情けない言い方だと思う。
「足場、ほとんどない」
鈴の声は平坦だ。
怖がっているというより、疲れている。
「重さ、あるか」
「少し」
間を置いて。
「すごく軽い」
胸が締めつけられる。
「名前、言えるか」
すぐに確認する。
確認しないと不安で壊れそうになる。
少しの空白。
「すず」
音だけ。
「漢字は」
「分からない」
やはり。
音は残る。
形は消える。
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登校中。
事故の交差点。
白線が朝の光を反射して眩しい。
あの日の恐怖はもう思い出せない。
鈴も覚えていない。
残っているのは、音と名前だけ。
「俺、どんな顔してた」
蓮は聞く。
沈黙。
「分からない」
さらに遠い声。
「顔、ぼやける」
世界が一瞬冷える。
自分の顔すら、輪郭が薄れている。
存在が、削られている。
自分は鈴の中で、もう形を保てていない。
それでも呼ぶ。
呼ぶことしかできない。
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昼休み。
屋上。
風が強く、金網が低く鳴る。
空は薄い白。
「鈴」
呼ぶ。
一分。
遅い。
確実に遅い。
「いる」
水の底から浮上してくるような声。
「今日、どうだ」
「軽い」
またその言葉。
「声、遠い」
鈴が言う。
「れんの声、反射みたい」
蓮は目を閉じる。
「好きだ」
はっきり言う。
沈黙。
数秒。
「ある」
ほんの少しだけ、気配が濃くなる。
だが以前ほどの重さはない。
「すぐ消える」
照れたような小さな息。
「ごめんね」
謝らなくていい。
そう言いたいのに、喉が詰まる。
好きという言葉の効力が、確実に弱まっている。
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放課後。
教室に残る夕方の光。
窓から差し込む橙色が机を染める。
雫はそこに立っていた。
目が赤い。
泣いたあとだ。
それでも背筋は伸びている。
「蓮」
声は静かで揺れない。
「もう、分かっています」
何が、と聞く前に続ける。
「私は、今ではない」
その言葉は責めない。
事実として置かれる。
胸が痛む。
「でも」
一歩近づく。
「最後まで逃げないでください」
その言葉には品がある。
懇願ではない。誓いだ。
蓮は頷く。
逃げない。
それだけは決めている。
雫は未来だ。
整った未来。
だが今は。
鈴がいる。
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夜。
机の上のライトだけが部屋を照らす。
日記を開く。
《36日目》
《好きが効かなくなってきた》
しばらくして文字が浮かぶ。
《効くけど、すぐ薄くなる》
線は細く、今にも途切れそうだ。
蓮は強く書く。
《消えるな》
沈黙。
長い。
返事が来ない。
「鈴」
声に出す。
返事がない。
一分。
二分。
三分。
心臓が痛い。
胸の内側がきしむ。
四分目に、ようやく。
「いる」
風と区別がつかないほどの音。
「今、遠かった」
蓮の声が震える。
「うん」
鈴は静かだ。
「光、近い」
その一言で、部屋の温度が下がる。
「近づくな」
即座に言う。
鈴が小さく笑う。
「命令、多い」
甘えた響き。
だが弱い。
「怖いか」
蓮は聞く。
間。
「少し」
初めてはっきり認める。
「でも」
「アンタの声、残響みたいに聞こえる」
残響。
直接ではない。
壁に当たって、遅れて返る音。
「それで戻れる」
小さく。
「少しだけ」
蓮は目を閉じる。
自分は、残響になりつつある。
本体ではなく、反射。
それでも。
届くならいい。
窓の外で風が動く。
風鈴が鳴る。
ちりん。
音は、ほとんど消えかけている。
三十六日目。
残り十三日。
空白は三分を越え。
好きは弱まり。
光は近づく。
それでも。
声は、まだある。
「鈴」
呼ぶ。
一分。
心臓が速い。
「いる」
返事は、まだ届く。




