名前の重さ
三十日目
朝。
カーテンの隙間から射し込む光が、天井に白い線を引いている。
エアコンの微かな送風音。
壁の時計の秒針が規則正しく刻む音が、やけに大きい。
蓮は目を開けた瞬間、考えるより先に呼んでいた。
「鈴」
声はかすれていない。だが胸の奥はすでに冷たい。
返事は来ない。
二十秒。
三十秒。
喉が乾く。
心臓が肋骨を内側から叩く。
四十秒を越えた頃、ようやく。
「いる」
遠い。
薄い。
向こう岸から漂ってくるみたいな音。
それでも、ある。
蓮は布団の上で拳を握り込む。爪が掌に食い込む。
「今日で三十日だ」
「うん」
鈴の声は柔らかい。けれど以前の丸みがない。輪郭が擦り減っている。
「半分、越えちゃったね」
照れたように、少しだけ笑う気配。
四十九日。
残り十九日。
数字だけ見ればまだある。
だが体感は終盤だ。足場はもう細い糸だ。
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登校途中。
事故のあった交差点で足が止まる。
白線がまぶしい。
アスファルトの照り返しが目に刺さる。
信号が青に変わる。
足がすくむ。
自分だけがここに残って、鈴だけがあの日に置き去りになった気がする。
「鈴」
呼ぶ。
返事はすぐ来ない。
やっと。
「なに」
甘えた響きがほんの少し混じる。弱いけれど、まだ可愛い。
「ここ、覚えてるか」
間が空く。
「うん」
だが迷っている。
「何があった」
蓮はあえて聞く。自分の傷をえぐるように。
長い沈黙。
「音」
小さく。
「大きな音」
胸が締めつけられる。
「あと」
息が揺れる。
「アンタの声」
それだけ。
恐怖も衝撃も、具体はない。
削れている。
「俺、何て言った」
「名前」
「誰の」
少し空白。
「わかんない」
声が揺れる。
「誰だっけ」
世界が音を失う。
蓮は信号の真ん中で立ち尽くしかける。
「鈴」
はっきり言う。
「お前の名前だ」
十秒。
「すず」
かすれた音。
「私、鈴だよね」
甘えるような響き。
でも自信がない。
胸が裂ける。
「そうだ」
即答する。
「俺の幼馴染で、鈴だ」
自分が忘れたら終わる。
そう思うと、足が震える。
名前が揺らぐ。
存在の芯が削られている。
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学校。
授業中、ノートの隅に何度も書く。
鈴。
鈴。
鈴。
筆圧が強すぎて紙がへこむ。
昼休み、屋上。
空は白く光り、風はぬるい。
「鈴」
三十秒。
「いる」
弱い。甘さはあるが、芯が薄い。
「自分の名前、言えるか」
間。
「すず」
「漢字」
沈黙。
長い。
「わかんない」
その言い方が、拗ねているみたいで、余計に痛い。
「鈴だ」
蓮は指で空に書く。
「金へんに、令」
何度もなぞる。
「鈴」
声に出す。
「すず」
鈴が小さく笑う。
「アンタが言うと、ちょっとだけ戻る」
甘えた調子。
だが息が浅い。
「ねえ」
少しだけ拗ねた声。
「ちゃんと呼んでよ」
「何を」
「名前」
その一言で、胸が締めつけられる。
「鈴」
強く。
「好きだ、鈴」
空気が震える。
五秒。
「いる」
ほんの少しだけ濃くなる。
甘く照れた響き。
「ずるい」
小さく。
「それ、効く」
好きという言葉が、核に触れている。
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放課後。
教室に残る柔らかな西日。
雫は窓際に立っていた。
白いブラウス。細いリボン。背筋はまっすぐ。
「蓮」
声は静かで澄んでいる。
「もう、無理をなさらなくていいのですよ」
品のある言い回し。責めない響き。
「何が」
自分でも卑屈だとわかる声。
「誰かを守ろうとして、壊れそうなお顔をしている」
核心を突く。
蓮は目を逸らす。
雫は続ける。
「私ではありませんね」
淡々と。だが責めない。
「私は未来で構いません」
穏やかに微笑む。
「今は、その方を見て差し上げてください」
その優しさが刺さる。
未来はこんなにも整っている。
なのに自分は、消えかけの過去に縋っている。
それでも。
手放せない。
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夜。
スタンドライトの下で日記を開く。
《30日目》
《名前が揺らいだ》
少しして文字が浮かぶ。
《私、誰だっけって思った》
線が震えている。
蓮は強く書く。
《鈴だ》
《俺の幼馴染》
《俺の好きな人》
インクが滲む。
長い沈黙。
やがて。
《好きって言われると、あったかい》
少し間。
《ここ、ちゃんとある気がする》
胸が強く打つ。
「鈴」
「なに」
甘い声。
でも薄い。
「好きだ」
即座に言う。
沈黙。
五秒。
十秒。
「いる」
前よりほんの少しだけ、濃い。
照れたみたいに。
「ちゃんと呼んでくれたら、消えない気する」
甘える。
でも、弱っている。
風が動く。
窓の外で風鈴が鳴る。
ちりん。
ほとんど聞こえない。
三十日目。
残り十九日。
色が消え。
匂いが消え。
記憶が削れ。
名前が揺らぐ。
それでも。
声は、まだある。
最後に残るのは、名前かもしれない。
そして。
その名前を、何度も呼べるのは。
自分だけだ。
「鈴」
二十秒。
「いる」
返事は、まだ届く。




