第5話 以上、事実と確認できず
夜会の当日。
王宮の大広間は、前世で文字だけから思い描いていたより、ずっと天井が高かった。
シャンデリアがいくつ下がっているかも、楽団がどこに座るかも、『王冠と白薔薇』には書かれていない。書かれていたのは、このあと起きることだけだった。
エルナ・ローデンヴァルト、前へ。
断罪状が読み上げられる。
エルナは衛兵に両腕を取られ、蒼白な顔で広間を出ていく。
七日前まで、私はその三行を、自分の行く末として読んでいた。
楽団が二曲目を弾き終えたところで、殿下が壇上で片手を挙げた。弦の余韻が消えた。
「エルナ・ローデンヴァルト。前へ」
名前のあとで、殿下は一度言葉を切った。私の頭の中で、原作の読点が句点に変わった。
人垣が左右に割れた。私は裾をつまんで、壇の下まで歩いた。扇の陰からの囁きが、いくつも背中に当たった。
足は震えなかった。あの紙に何が書いてあるか、私は一字残らず知っていたので、壇までの道はそれほど長く感じなかった。
壇の端に、ベルクマン様が控えていた。
黒い上着に、革の書類筒を抱えていた。金庫から出してきた正本だと、すぐに分かった。彼は筒から紙を抜いて、殿下に差し出した。殿下は広間に顔を向けたまま、それを受け取った。
壇の脇には、淡い色のドレスを着たミレイユ嬢が立っていた。胸の前で、両手を固く組んでいた。
「今宵は皆に、聞いてもらいたいことがある。私の婚約者の、見過ごせない振る舞いについてだ」
前置きは、殿下ご自身の言葉だった。よく通る声で、何度も口の中で練った跡があった。
正本のほうは、この瞬間まで一度も開かれていない。
殿下が、紙に目を落とした。
「一、学院の大階段において、ミレイユ嬢を突き落とした件」
見出しまでは、堂々としていた。
その下の数行で、声が目に見えて落ちていった。どれも私が赤を通した文だ。主語も述語も、収まるべき場所に収まっている。どこをどう読んでも、ほかの意味には取れない。
最後の行の手前で、殿下は一度、息を吸い直した。
「……以上、事実と確認できず」
広間のどこかで、グラスを卓に置く音がした。
殿下は横目でベルクマン様を見た。彼は背筋を伸ばしたまま、正面を見ていた。
ここでやめることも、できなくはなかったと思う。けれど楽団を止め、皆を黙らせ、私を呼び出したのは殿下ご自身だ。いま紙を丸めて壇を降りれば、中身を知らずに印を押したと、広間じゅうに知らせることになる。
殿下は、第二項に進んだ。
「二、ミレイユ嬢の教科書を、破った件」
今度は、見出しの途中で声が揺れた。目が、口より先の行を追っているのが分かった。要旨は早口になり、そして、さっきと同じところに着いた。
「以上、事実と確認できず」
扇の陰の囁きが、中身を変えた。
第三項では、殿下はもう声を張らなかった。手紙は宛先に届いておらず、書き手が誰かも確かめられない。その数行を、殿下は皆に向けた宣言というより、自分に宛てた通知を読むような声で読んだ。
「……以上、事実と確認できず」
前列にいた年配の伯爵が、口の中で同じ文をなぞったのが見えた。三度も聞かされれば、誰だって覚える。
第四項は短かった。これは評価であって、事実の記載ではない。根拠とされた三項は、いずれも確認できない。
殿下はそこを、ほとんど一息に読みきった。
そして、結論に来た。
「よって、婚約破棄の正当な理由は認められない」
殿下の声は、そこで止まった。
紙の下のほうに、もう一行あるはずだった。二日前の晩、私が赤で書き、彼が黒で写した一行だ。
殿下は、その一行を、一語ずつ確かめるように読んだ。
「ただし、当事者双方が解消を望む場合は、この限りではない」
広間が、静まり返った。
原作のこの場面は、騒がしかった。どよめきに、誰かの短い悲鳴に、近づいてくる衛兵の靴音。紙面いっぱいに、音が詰めこまれていた。
いま聞こえるのは、燭台の芯がはぜる、かすかな音だけだった。
殿下が、紙から顔を上げた。婚約してから初めて、正面から私を見たような気がした。
「これは」と言いかけたまま、殿下は次の言葉を探していた。
その先を待たれているのが誰なのかは、明らかだった。
前世の私は、人の書いた文に赤を入れて暮らしていた。この世界に来てからも、自分の手紙の下書きにまで赤を入れてきた。けれど、自分の文を、自分の声で、大勢の前で言ったことは一度もなかった。
私は、一歩前に出た。
「解消を望みます」
思っていたより小さな声だった。それでも、広間のいちばん奥まで届いたのが分かった。
言い終えてから、頭の中で一度だけ読み返した。主語は省いたけれど、誰の文かは誰にも分かる。直すところはなかった。
殿下の目が、壇の脇へ流れた。ミレイユ嬢は組んだ手をほどけないまま、殿下を見上げていた。
「ベルクマン。この場合は、お前に任……」
殿下は、そこで口を閉じた。短く、首を横に振った。
「いや。私も、解消を望む」
ベルクマン様が、一歩進み出た。
「王家の婚約の定めにより、当事者双方が公の場で解消を望まれたことを、確認いたしました。本婚約は、円満に解かれたものと認められます」
いつもの、公文書の調子だった。あの声をあれほどありがたく聞いたことは、後にも先にもない。
誰かが、ためらうように手を叩いた。拍手は二つ、三つと増えていき、楽団の誰かが気を利かせて、弦を一本だけ鳴らした。
殿下は紙を持ったまま、しばらく動かなかった。それから私に向かって、小さく頭を下げた。
「すまなかった。読むべきだった」
短い文だった。けれど、正しい文だった。
拍手がまだ鳴りやまないうちに、ベルクマン様が殿下の前に膝をついた。
「殿下。本文書は、私が起草いたしました。公の場で殿下に恥をおかけした責めは、すべて私にございます。明朝、辞表をお届けいたします」
殿下が何か言うより先に、彼は立ち上がって一礼した。
それから、ほんの一瞬だけ、彼が私のほうを見た。
図書室の卓の向こうで、何度も見た顔だった。何か書きかけて、ペンを止めるときの顔だ。
何も言わずに彼は背を向けた。人垣のあいだを抜けて、大広間の扉のほうへ歩いていった。
追いかけることは、できなかった。
たったいま婚約を解かれた令嬢が、その場で殿下の補佐官を追って駆けだせば、今夜の文書の結論は、別の噂で上書きされてしまう。彼が一字も違えずに書いたものを、私の足で汚すわけにはいかなかった。
私はその場に立ったまま、黒い上着の背中が扉の向こうに消えるのを見ていた。
解消を望みます、は声にできた。
あなたに何も失ってほしくない、のほうは、まだ胸の中に伏せたままだった。
彼のほうの、書かれなかった一文も。
それはあの背中と一緒に、扉の向こうへ行ってしまった。




