第4話 但し書きは、あなたが
夜会まで、あと二日。
その晩、彼が卓に置いたのは、四つ折りの跡が残る便箋一枚きりだった。
「第三項の証拠品です。こちらも、殿下の執務室からお借りしました」
覚え書きの第三項は、こうだ。
ローデンヴァルト嬢が、ミレイユ嬢を中傷する手紙を送った。
文面なら、開く前から分かっていた。『王冠と白薔薇』は、この手紙を一字残らず載せている。前世の私はそこを読んだ晩、三行目に赤を入れたくて仕方がなかった。
それでも、今夜は先に言わないと決めていた。
覚えていることを口にしたところで、彼の手帳に「情報の出どころ、未確認」がもう一行増えるだけだ。紙の上にあるものだけを読もう、と思った。
便箋には、宛名も署名もなかった。
身の程をわきまえなさい。殿下のお情けに甘えて少しづつ思い上がるあなたを、皆が陰で笑っています。
右上がりの、角の立った字だった。似ていると言われれば、否定はしきれない。私の字も、右に上がる。
「少しづつ、と書いてありますね」
「はい」
「誤りとまでは言えません。そう書く人もいます。ただ、私は書きません。必ず、ずつと書きます」
「存じております」
彼は鞄から、紐で綴じた紙の束を出した。私が学院に出した課題の作文で、三年分あった。
「ずつ」は十四か所。「づつ」は一か所もなかったという。
窓際で、ハンナが小さく笑った。
「お嬢様は、ご自分の手紙の下書きにまで赤を入れる方ですもの」
「ですが」と彼は言った。「これだけでは、あなたが書いていないとは書けません。表記は真似られますし、たまたま違えることもあります」
「承知しています」
教科書を調べた晩にも、同じ返事をした。けれど今夜のそれは、半分は自分に言い聞かせる声だった。
前世の記憶も、一字の表記も、扉の取っ手のようなものだ。手をかけることはできる。けれど、それだけでは部屋の中は見えない。
「ですので、宛先の方に伺いました」
今朝、寮監を通して、ミレイユ嬢にこの便箋を見てもらったのだという。
彼女は首を横に振った。こんな手紙は見たことがない。受け取ったこともない、と。
「では、この手紙はどこから」
「殿下にお渡しした方は、学院の談話室の卓で拾った、と申しています。ローデンヴァルト嬢の字に見えた、とも。そこから先は、辿れませんでした」
殿下に手紙を渡したその人の名を、彼は草稿に書かなかった。
「本項で問われているのは、手紙が送られたかどうかです。誰を責めるかではありません」
草稿は、もう出来ていた。
宛先とされたミレイユ嬢は本書簡を受け取っておらず、送付の事実は認められない。また、筆者はローデンヴァルト嬢ではない。
私は赤インクの蓋を開け、最後の「ではない」に線を引いた。余白に、こう書いた。
筆者がローデンヴァルト嬢であるとは、確認できず。
彼のペンが止まった。
「ご自身に不利な赤ですが」
「正確な赤です。書いていないと証明できたわけではありませんもの。あなたが一字も違えたくないのと同じで、私も、言い過ぎた文は通せません」
彼はしばらく私を見ていた。それから、赤字のとおりに書き直した。
第四項は、短く済んだ。
将来の王妃にふさわしくない振る舞いが目立つ。
「これは評価です。事実の記載ではありません」
根拠とされた三つの項目は、どれも確認できなかった。彼はそう書き添えて、項を閉じた。
残るのは、結論だけだった。
よって、婚約破棄の正当な理由は認められない。
句点を打ったところで、彼はペンを置いた。
「ローデンヴァルト嬢。一つ、伺っていなかったことがあります」
「何でしょう」
「あなたは、この婚約を続けたいのですか」
すぐには答えられなかった。
家と家とが決めた婚約だった。父は口を挟まなかったし、殿下は私の顔をろくに見なかった。『王冠と白薔薇』にも、エルナが何を望んでいたかは、一行も書かれていない。
この世の十八年に前世の分を足しても、誰かにそれを尋ねられたのは初めてだった。
「正当な理由がなければ、婚約は続きます。この文書の結論は、ここで終わります」
彼は草稿をくるりと回し、私のほうへ押し出した。
「この先に何か書き足すべきかどうかは、私には決められません。ご当人のことですので」
私はしばらく、句点のあとの白いところを見ていた。
他人の文を直すことなら、いくらでもしてきた。けれど、自分の望みを、自分の手で一から書いたことはなかった。
赤いペン先を、紙に下ろした。
ただし、当事者双方が解消を望む場合は、この限りではない。
直すためでなく赤を使ったのは、それが初めてだった。
彼は長いこと、その一行を読んでいた。
「王家の婚約の定めにも、同じ趣旨の条があります。双方が公の場で望めば、理由は問われません。……成り立ちます」
それから彼は、正本の用紙を広げた。赤は正本には載せられない。私の書いた一行は、彼の黒インクで、結論のすぐ下に写された。
書き上がった正本を、私は頭から一度だけ通して読んだ。
一字の誤りもなかった。誤りがないことをあれほど怖いと思ったのは、前にも後にも、あのときだけだ。
夜会まで、あと一日。
その晩、彼はいつもより少し遅れて来た。
「押印をいただきました」
正本は殿下の執務室の金庫に納めた、と彼は言った。卓の上には、私の赤インクと、角の欠けた彼の手帳しかなかった。直すべき紙が一枚もない晩は、初めてだった。
「押印の前に、内容をご確認ください、と申し上げました。二度目です」
「殿下は、何と」
「夜会の卓に飾る花を、お選びになっているところでした。お前に任せる、と」
殿下は正本を開かないまま、印を押した。彼はそれを、一度目のときと同じ書き方で、手帳に書きつけていた。
少し開いた扉の向こうで、廊下の時計が鳴った。ハンナの針の音が止まった。
「ベルクマン様。一昨日の晩、私は述語を抜かしました」
彼が顔を上げた。
「今夜は、最後まで申します。あの文書が読み上げられたら、あなたが責めを負います」
「誤りのない文書に署名する責任は、私にあります」
いつもの、公文書の調子だった。
「誤りのある文書に署名するより、ずっと軽い責めです。私は一度、それを見ておりますので」
四日目の朝のことだと、言われなくても分かった。
本当に言いたかった文は、ほかにあった。
あなたに、何も失ってほしくない。
けれど、まだ殿下の婚約者である身で、書いてよい文ではなかった。私はそれを、下書きのまま胸の中に伏せた。
彼は手帳を閉じて、立ち上がった。扉の前で、一度だけ振り返った。
「では明晩、大広間で」
あとから思えば、あの晩、私たちはどちらも一文ずつ、書かずにおいたのだと思う。




