第3話 第二項、四本足の証人
夜会まで、あと四日。
その晩、彼が鞄から最後に取り出したのは、布にくるんだ一冊の本だった。
「第二項の証拠品です。殿下の執務室に届けられていたものを、お借りしてきました」
学院の歴史の教科書だった。裏表紙の隅に、ミレイユ・コランと小さく名前がある。
布を解くと、真ん中あたりの十数枚が、綴じ目からめくれるように裂けていた。
覚え書きの第二項は、一行きりだ。
ローデンヴァルト嬢が、ミレイユ嬢の教科書を破った。
いつ、どこで、が抜け落ちている。
「見つかったのは、寮の、ミレイユ様のお部屋ではありませんか」
口にしてから、またやってしまった、と思った。
『王冠と白薔薇』には、彼女が自室の机でこの本を見つけて泣く場面がある。ご丁寧に挿絵まで付いていた。
彼は手帳を開き、黒インクで一行を足した。
発見場所、寮の自室か。情報の出どころ、未確認。
前の晩と同じ書き方だった。それ以上、彼は何も尋ねなかった。
「寮の来訪者の記帳を当たります。ただ、名前がないことは、入っていないことの証明にはなりません」
「承知しています」
承知していた。だから私は、本そのものを見ることにした。
紙の傷みを確かめるのは、前世の名残だ。刷り上がった束から、折れや汚れのある一枚を抜き出すのも、仕事のうちだった。
裂け目は、まっすぐではなかった。
人の手で破れば、紙は目に沿ってそれなりに素直に裂ける。刃物ならなおさらだ。ところがこの裂け目は細かく波打ち、ところどころ毛羽立っていた。
余白には、乾いて縮れた輪じみが幾重にも残っている。そして綴じ目の近くに、小さな穴が二つずつ、組になって開いていた。
「その頁を、灯りにかざしていただけますか」
彼は燭台の前で紙を持ち上げた。
炎の光が穴を抜けて、卓の上に落ちた。二つ、二つ、また二つ。どの組も、同じ幅だった。
「……歯の跡、ですね」
窓際で、ハンナが身を乗り出した。
「犬ですよ、お嬢様。それも小さいのです。実家の牧羊犬の仔が、よく靴をこうしておりました」
彼は紙を下ろし、しばらく黙っていた。
「学院の寮では、動物の飼育は禁じられています」
「禁じられていることと、そこにいないことは、別の話ではありませんか」
彼は私を見て、それから手帳に書いた。
寮内における動物の有無、要確認。
夜会まで、あと三日。
その晩、彼が卓に置いた手帳は、表紙の角がひとつ欠けていた。
「ミレイユ嬢にお会いしました」
寮監からの返事は、まだ先のはずだった。
ところが今朝、彼が寮の管理人から話を聴いていたところへ寮監が来て、ミレイユ嬢が自分から話したいと言っている、と告げたのだという。
管理人は、夜更けにか細い鳴き声を何度か聞いたと話していた。来訪者の記帳には、この一年、私の名は一度もなかった。
面会は、寮監の立ち会いのもと、応接間で行われた。
ミレイユ嬢は、籠をひとつ抱えて現れた。中にいたのは、栗色の子犬だった。
「ポム、という名だそうです」
この人の口から出ると、その名前は妙に厳かに響いた。
寮の裏で鳴いていたのを拾った。追い出すこともできず、洗濯場の物置でこっそり世話をしていた。ある晩、部屋に連れて入ったら、机の上の教科書をくわえて離さなかった。
翌日、彼女は破れた本を教室へ持っていくしかなかった。級友にわけを聞かれ、口ごもった。
誰かが、私の名前を出した。
犬のことを話せば、寮にはいられなくなる。彼女は、首を横に振れなかった。
「訴え出たことは一度もない、とのことです。殿下のお耳に入っていることも、ご存じありませんでした」
それから彼女は、階段のことも話した。
足を踏み外したとき、上から腕をつかまれた。あの手がなければ、下まで落ちていた。お礼を言おうとしたけれど、その前に「突き落とされた」という噂が広まってしまった。打ち消せない自分が恥ずかしくて、私の顔を見られなかった、と。
伏せられた目の意味を、私はそのとき初めて知った。
怯えていたのではなかったのだ。
「第一項は、ご本人の証言をもって閉じます。事実と確認できず」
彼は第一項の草稿を取り出し、末尾に黒インクで一行を書き足した。
「第二項も同様です。証人が、もう一方おりましたので」
「もう一方?」
彼は手帳を、私のほうへ向けて押し出した。
欠けた角の縁に、小さな穴が二つずつ並んでいた。
「比較のための見本を、先方がご提供くださいました」
ハンナが刺繍枠を取り落とした。私も、こらえきれなかった。
声を立てて笑ったのは、ずいぶん久しぶりだったと思う。
彼のほうは、何がおかしいのか分からないという顔だった。
ポムの処遇は、ひとまず寮監が預かることになったという。
草稿は、今夜も用意されていた。
第二項の三行目に、こうあった。
教科書を破損した犯人は、ミレイユ嬢が飼育する子犬である。
私は赤インクの蓋を開け、「犯人」に線を引いた。
犬は罪に問えません。犯人ではなく、原因です。
少し考えて、もう一行書き添えた。
寮監の目にも触れる文書です。「飼育する」より「保護していた」のほうが、ご本人に酷ではない、かと。
彼は長いあいだ、その赤字を見ていた。
「どこで、これを身につけられたのですか」
赤の入れ方のことだと、すぐに分かった。
十八の伯爵令嬢が覚える技ではない。
「以前、人の書いた文字を直す仕事をしていたことがあります」
嘘ではなかった。いつ、どこで、を抜いただけだ。
彼は、それがいつのことかとは聞かなかった。そうですか、と言って、赤字のとおりに書き直した。
子犬は、ミレイユ嬢が寮内で保護していたものであり、本件の破損の原因と認められる。
「私も、似たことをしておりました」
書き終えてから、彼はぽつりと言った。
法務院の書記官になったのは十九のときだという。子爵家の三男には、継ぐものがない。字が丁寧だという理由だけで、判決文の写しを任された。
二年目に、上役が写した判決文に、名前の書き違いが見つかった。一字だけだった。
同じ町に、一字違いの名の男がもう一人いた。その男が、三日のあいだ留め置かれた。
「間違いに気づいたのは、私です。四日目の朝でした」
ペン先を布で拭いながら、彼は続けた。
「言葉は人を裁けます。一字あれば足ります。ですから私は、一字も違えたくないのです」
冗談の通じない堅物だという評判の、その中身を、私はそのとき初めて聞いた。
そして、気づいてしまった。
残る二項がどうなるかは、まだ分からない。けれど少なくとも二つの項目のあとには、もう「事実と確認できず」の一文が並んでいる。
殿下はそれを、夜会の大広間で読み上げる。中身に一度も目を通さないまま、居並ぶ人々の前で。
恥をかくのは殿下だ。けれどその恥の出どころとして、末尾に名を残すのは、この人だ。
一字の誤りで人が裁かれることを、誰よりも畏れている人が、一字も誤っていない文書のせいで、裁かれるかもしれない。
「ベルクマン様」
彼が顔を上げた。
「この文書が、このまま仕上がったら、あなたは……」
その先が出てこなかった。
書かないでください、とは言えない。書かれなければ、私は修道院へ行く。書かれれば、この人が何かを失う。
どちらの文も、私には最後まで書けなかった。
「何か、不備がございましたか」
「……いいえ。今の私の言葉に、述語が抜けていただけです」
彼はわずかに首をかしげた。それから、では明晩、第三項を、と言って一礼した。
扉が閉まったあとも、私は卓の前を離れられなかった。
言いかけてやめた一文は、述語のないまま、その晩ずっと胸の中に残っていた。




