第2話 第一項、階段の件
夜会まで、あと六日。
約束の刻限ちょうどに、扉の呼び鈴が鳴った。
柱時計の鐘と音が重なったので、ハンナが小声で「本当に定規みたいな方ですね」とつぶやいた。
図書室の大きな卓に、彼は鞄の中身を並べていった。
学院の出欠簿の写し、寮の名簿、殿下のまわりで聴き取った話の控え。どの束も、角がきちんと揃えてあった。
扉は、取り決めどおり半分ほど開けてある。
ハンナは窓際の椅子で刺繍を広げたものの、針はほとんど進んでいなかった。
「第一項から始めます」
彼は控えの一枚を、私の前に置いた。
一月ほど前の放課後、学院の大階段にて、ミレイユ嬢が転落。ローデンヴァルト嬢が背後から押すのを見た者がいる。
「見た者、とは、どなたですか」
「記載がありません」
彼は淡々と答えた。
「殿下にこの話をお伝えした方は、ご友人から聞いたそうです。そのご友人は、学院の誰かから聞いたと」
又聞きの、さらに又聞き。
前世なら、出典不明の付箋を貼って突き返していた類の文だ。
「では、その日のことを、覚えておられる限りお聞かせください」
私は膝の上で指を組んだ。
あの日、私は図書館へ本を返しに行くところだった。
大階段を下りかけたとき、数段下にミレイユ嬢がいた。ミレイユ嬢が抱えた本が崩れかけて、それを直そうとした拍子に、彼女の足が段を踏み外した。
私はとっさに手を伸ばし、彼女の左の二の腕をつかんだ。
体が傾いたまま、彼女は二段ほどずり落ちて、段に腰をついた。私は手を離さなかった。だから、下まで転がらずに済んだのだ。
「つかんだのは、どちらの手ですか」
「右です。左手は手すりを握っていました」
「彼女は、あなたの何段下にいましたか」
「三段……いえ、四段だったと思います」
彼はひとつずつ手帳に書き留めた。相づちも、感想も挟まなかった。
それが、かえってありがたかった。
疑われているのでも、慰められているのでもない。ただ、記録されている。
けれど、つまずいたのはその先だった。
「あなたのお話を裏付けられる方は、いらっしゃいますか」
答えられなかった。
あのとき私が見ていたのは、ミレイユ嬢の腕だけだ。
本人に頼むこともできない。あの日以来、彼女は私の姿を見かけるたび、怯えたように目を伏せるのだから。
「……周りに誰がいたかは、覚えていません」
そう言ったとたん、頭の奥に一行の文が浮かんだ。
前世で読んだ『王冠と白薔薇』の、断罪の場面。
証人として呼ばれた少女の紹介は、こうだった。
階段の下で花瓶の水を替えていた、下働きのリタ。
読んだ当時、私はその一行の横に、疑問を書き込みたくてたまらなかった。
下にいた者に、上の人間の手が押したのか引いたのか、本当に見分けられるのか、と。
「リタ、という子がいたはずです」
口に出してから、しまったと思った。
「学院の下働きの子です。階段の下で、花瓶の水を替えていたと思います」
テオドールのペンが止まった。
「周りに誰がいたかは覚えていない、と今おっしゃいました」
「はい」
「それでも、その名前はご存じなのですね」
もっともな問いだった。
私が校正者でも、同じ箇所に鉛筆で印をつける。
前世で読んだ小説に、そう書いてあったから。
正直にそう答えたら、この人はどんな顔をするだろう。少なくとも、断罪状に「虚言癖」の一項が増えるのは避けられまい。
「……なぜ知っているのかは、申し上げられません」
窓際で、ハンナの針が完全に止まった。
彼はしばらく私を見ていた。
それから手帳に目を落とし、黒インクで書いた。
証人候補、リタ。情報の出どころ、未確認。
「承知しました」
それだけだった。
「お尋ねにならないのですか」
「出どころを突き止めても、その者が何を見たかはわかりません。確かめるべきは、そちらです」
彼は手帳を閉じた。
「明朝、学院へ参ります」
夜会まで、あと五日。
その晩、彼の外套の裾には、乾いた泥がこびりついていた。
「リタに会ってきました」
椅子に掛けるより先に、彼はそう言った。
学院には確かに、リタという十四の下働きがいた。
あの日、大階段の下の飾り台で、花瓶の水を替えていた。
悲鳴を聞いて顔を上げたとき、ミレイユ嬢は段に座り込んでいて、そのすぐ上に私がいた。私の手は、ミレイユ嬢の腕にかかっていた。
リタが見たのは、それだけだった。
「押したところは、見ていないと」
「押したのか、引いたのか、どちらとも言えないそうです。下から見上げる位置では、手の向きまでは見えなかったと」
リタはその晩、寮の厨房で「ローデンヴァルト様の手が、ミレイユ様に掛かっていた」と話した。
それが何人かの口を経るうちに、「押していた」に変わったらしい。
安堵したかと聞かれれば、半分だけだった。
リタの言葉は、私が押していないことの証明にはならない。
押したと言える者がいない。分かったのは、それだけだ。
彼も、そこを取り違えてはいなかった。
「この項は、まだ閉じられません。腕をつかまれたご本人から話を伺うまでは」
ミレイユ嬢への面会は寮監を通さねばならず、返事は数日先になるという。
それでも彼は、ここまでの分を草稿にまとめてきていた。
差し出された紙の三行目で、私の目が止まった。
本件の目撃者の証言は、階段の下にいたため、手の向きを見ていない。
主語は「証言は」。述語は「見ていない」。
証言は、ものを見ない。
私は小箱から羽ペンを抜いた。今度は、ためらわなかった。
「証言は」に赤い線を引き、余白に書いた。
目を持っているのは、証言ではなく証人です。
テオドールは紙を取り上げ、その一行をじっと見た。
「……証言は、見ませんね」
どこまでも真顔だった。窓際で、ハンナが咳払いのような音を立てた。
彼は黒インクで書き直した。
目撃者は階段の下にいたため、手の向きを見ていないと述べた。
今度は、どこにもねじれがなかった。
「昨夜から、あまり眠っておりませんので」
言い訳というより、事実の記載のような口ぶりだった。
「一字も見逃さない方だと、伺っていましたけれど」
ハンナが今朝、出入りの商人から仕入れてきた評判だ。
少し意地の悪い言い方だったと思う。けれど彼は気を悪くした様子もなく、ペン先を布で拭った。
「ご指摘はもっともです。ですから、今後は」
彼は、まっすぐに私を見た。
「私の文書に誤字があれば、それは意図したものとお考えください」
冗談だろうか、と一瞬思った。
けれど、その顔は少しも笑っていなかった。二度と間違えないという宣言なのだろう。私はそう受け取って、頷いた。
その一文に、もうひとつの読み方があると知るのは、ずっとあとのことになる。
帰り支度の前に、彼はもう一件、報告をした。
「本日、殿下に申し上げました」
学院から戻ったその足で、執務室に寄ったのだという。
「告発の多くは、裏付けが取れておりません。読み上げの前に、内容をご確認ください、と」
「殿下は、何と」
「お前に任せる、と」
彼は手帳を開き、書き留めた一行を私に示した。今日の日付と、進言一回目、回答「任せる」。
その一行を見て、私はようやく気づいた。
殿下は、断罪状を読まない。
覚え書きを持ち込んだ令息たちは、耳にした話を確かめない。
リタの言葉を「押していた」に書き換えた人たちも、きっと誰ひとり、悪いことをしたとは思っていない。
確かめているのは、この人だけなのだ。
朝のうちに学院まで歩き、昼は殿下に頭を下げ、夜はここで、断罪される当人から赤字を受ける。
外套の泥は、その道のりの分だけついていた。
そして、この文書の末尾に名を記すのも、おそらくこの人だ。
「ベルクマン様」
呼び止めておきながら、何を言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。
「……お気をつけて、お帰りください」
「はい。では明晩、第二項を」
彼は、ゆうべと寸分違わぬ角度で一礼した。
扉が閉まったあと、私は卓に残った赤インクの小さな染みを、しばらく眺めていた。
私の判決文を書く人。
そうとしか思っていなかったはずの相手を、ただの書き手として見られなくなったのは、たぶんあの晩からだ。




