第1話 告発事項の事実確認に参りました
自分の断罪状に最初の赤インクを入れたのは、ほかでもない私だった。
告発される本人が、告発の文面を直す。
そんなことがあるものかと、いま思い返しても少し可笑しい。
けれど、あの七日間は本当にそこから始まった。
夜会まで、あと七日。
その晩、私は自室で、修道院へ持っていく本の目録を作っていた。
書名の表記を揃えるのに、三度も清書し直していた。
前世の記憶が戻ったのは、一年ほど前のことだ。
私は出版社で校正の仕事をしていた。他人の原稿から誤字を拾い、言葉の揺れを揃え、ねじれた文の横に鉛筆で小さな疑問を書き添える。そういう毎日だった。
そして、この世界は、前世で読んだ恋愛小説『王冠と白薔薇』と同じ筋をたどっている。
小説の中の私、エルナ・ローデンヴァルトは悪役令嬢だ。
アルベルト王太子殿下の婚約者で、男爵令嬢のミレイユをいじめ抜き、建国記念の夜会で断罪状を読み上げられて、修道院へ送られる。
もちろん、避けようとはした。
ミレイユ嬢には近づかないようにしたし、殿下の前では口数を減らした。
それでも、出来事のほうから寄ってきた。避けていたはずの大階段で、私は結局、原作と同じ場所に立っていた。
正直、疲れていた。
筋書きというものは、どれほど抗っても同じ形に戻ってくる。
そう思い至るまで、一年は十分な長さだった。
扉が叩かれたのは、目録の三十二冊目を書き終えたときだ。
「お嬢様、王太子殿下の補佐官という方がお見えです」
侍女のハンナの顔は、こわばっていた。
私は、赤インクの小瓶と羽ペンを収めた小箱を手にしたまま階下へ下りた。前世からの癖で、筆記具が手元にないと落ち着かないのだ。
応接間に入ると、黒い外套の青年が立ち上がった。
背が高く、襟元まで一分の隙もない。手には使い込まれた革の書類鞄。
「テオドール・ベルクマンと申します。王太子殿下付きの補佐官を務めております」
一礼の角度まで、定規で引いたように正確だった。
「夜分に失礼いたします。告発事項の事実確認に参りました」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
告発事項。
その一語で、私はすべてを察した。
この人が、私の判決文を書く人なのだと。
原作には、断罪状を誰が書いたのかは描かれていなかった。補佐官は名前が一度出るだけの脇役で、私はその名前すら覚えていなかった。
「……殿下のご命令で、いらしたのですか」
「いいえ。殿下が私に命じられたのは、断罪状の起草です。こちらへ伺ったのは、私の判断です」
彼は表情ひとつ変えずに続けた。
「殿下は七日後の建国記念の夜会において、ローデンヴァルト嬢とのご婚約の破棄を宣言されるご意向です。その理由を記す文書を、私が起草いたします」
ハンナが息を呑む音がした。
私は驚かなかった。驚けなかった、と言うほうが正しい。とうに知っている筋だったから。
「それを、告発される当の本人に話してよろしいのですか」
「口止めはされておりません」
真顔だった。
冗談のつもりは、おそらく微塵もなかったと思う。
「手元にあるのは、殿下の周囲で集められた覚え書きだけです。裏付けのない文言を、私は書けません。告発された方の言い分を伺うのは、法務院では当然の手続きです」
言い分。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
婚約が決まったときも、学院で噂が立ったときも、私に言い分を尋ねた人は一人もいなかったからだ。
「お断りになればよろしかったのに」
思わずそう漏らすと、彼はわずかに間を置いた。
「私が断れば、殿下は別の者にお命じになります。その者は、覚え書きをそのまま清書するでしょう」
それ以上の説明はなかった。
彼は鞄から一枚の紙を取り出し、卓に置いた。
覚え書きには、四つの項目が並んでいた。
学院の大階段からミレイユ嬢を突き落とした件。
ミレイユ嬢の教科書を破った件。
ミレイユ様を中傷する手紙を送った件。
将来の王妃にふさわしくない振る舞いが目立つ件。
読み進めるうちに、背筋が冷えていった。
言い回しこそ違うが、項目も順番も、原作の断罪の場面とそっくり同じだった。
私は突き落としてなどいない。
けれど原作の中でも、私の弁明に耳を貸す人はいなかった。
筋書きは変わらないのだ。
そう思った、次の瞬間、
「ミレイユ嬢が階段から落ちたのは、ローデンヴァルト嬢が背中を押した。」
第一項の書き出しが、目に飛び込んできた。
主語は「落ちたのは」。述語は「押した」。
落ちた理由を述べようとして、途中で別の文にすり替わっている。
気づいたときには、もう手が動いていた。
小箱から羽ペンを抜き、赤インクに浸し、ねじれた箇所に線を引いて、余白に「主述が噛み合っていません」と書きつけていた。
ついでに、見出しは「破った」なのに本文は「破いた」になっている第二項の揺れにも丸をつけた。
項目によって「ミレイユ嬢」と「ミレイユ様」が混在していることにも。
「お嬢様!」
ハンナの声で、我に返った。
王太子殿下の補佐官が持参した書類に、断罪される当人が赤を入れている。
落ち着いて考えれば、正気の沙汰ではない。
「……失礼いたしました。昔からの、癖で」
頬が熱かった。
これでまた「高慢な令嬢」の材料が一つ増えるのだろう、と思った。
けれど、テオドール・ベルクマンは紙を取り上げ、赤い線をひとつずつ目で追った。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「ご指摘のとおりです」
それから懐の手帳を開き、黒インクのペンで書き留めた。
主述の不一致、一。表記の不統一、一。敬称の不統一、一。以上三点。
私は、彼の顔を見上げた。
怒っても、呆れてもいなかった。ただ、誤りを誤りとして受け取った人の顔をしていた。
前世の職場で、何度か出会ったことがある。
赤字を嫌がらず、むしろ礼を言う書き手。
そういう人の原稿は、たいてい最後にいちばん良いものになった。
「ローデンヴァルト嬢」
彼は紙を卓に戻した。
「文の乱れている箇所は、中身もまた乱れていることが多い。私はそう考えております。あなたの目をお借りしたい」
「告発される本人の目を、ですか」
「当事者の言い分と、文書の正確さ。そのどちらも、私一人では十分に確認できません」
彼の申し出はこうだった。
夜会までの毎晩、一時間。告発を一項目ずつ検証する。彼は学院の出欠簿や寮の名簿、聴き取りの控えを持ち込む。私は、自分がその日どこで何をしていたかを答える。
「場所は、この屋敷の図書室ではいかがでしょう。大きな卓がございますから」
私がそう言うと、ハンナがすかさず口を挟んだ。
「私も同席いたします。扉は開けたままで」
「当然です。そうしていただけると助かります」
彼は少しも嫌な顔をせずに頷いた。
正直に言えば、まだ信じきれてはいなかった。
この人は殿下の補佐官で、私の断罪状を書く人だ。毎晩の検証が、より隙のない判決文を仕上げるための下調べでないとは言い切れない。
それでも、あの晩の私は頷いた。
噂だけで決めつけずに、私自身の話も聞こうとしてくれる人がいた。
まだ怖かったけれど、この人になら話してみようと思った。
帰り際、彼は扉の前で振り返った。
「では明晩、第一項から」
扉が閉まったあと、私は自室に戻り、書きかけの目録を眺めた。
三十二冊目で止まったその紙を、私は引き出しの奥にしまった。
続きを書くのは、七日後でも遅くはない。
あとから思えば、私の筋書きに最初の赤が入ったのは、あの晩だった。




