第6話 求婚に関する申請書
夜会から、ひと月あまりが過ぎた。
辞表は、言ったとおり翌朝に届けられたそうだ。
そうだ、と伝聞で書くのは、私がその場にいなかったからだ。あの朝のことを教えてくれたのは、王宮から戻った父だった。
「殿下は、辞表を二度お読みになったそうだ。一度目は黙って、二度目は声に出して」
二度進言されて一度も読まなかった方が、辞表は二度読んだ。そのあと受理の署名をなさって、法務院の長官あてに自筆の一筆を添えられた。この者を手放すのは私の落ち度によるもので、この者の落ち度ではない。そういう趣旨だったと聞いている。
ベルクマン様は、補佐官になる前にいた法務院へ、書記官として戻った。
殿下はその後、回ってくる書類を一枚残らず読むようになった。一行ごとに質問なさるので午前が終わらないと、新しい補佐官がこぼしているらしい。
ミレイユ嬢とのことも、今度は順を踏んでいる。男爵家へ正式に書状を送って、外遊から戻られる両陛下のお許しを待っているという。
ミレイユ嬢からは、私あてに手紙が来た。寮監に自分から申し出て、ポムは男爵家の王都邸で引き取ることになりました、とあった。便箋の端に、小さな歯形が残っていた。
誤字がふたつあったが、赤は入れずに、そのまましまった。
父が驚いたのは、辞表の件より、夜会の帰りの馬車でのことだった。
「解消を望む、と言ったのは、お前自身の考えか」
はい、と答えた。父はしばらく窓の外を見ていた。
「そうか。お前が何かを望むのを、初めて聞いた」
叱られるのだと思った。けれど父はそれきり何も言わなかった。翌朝の食卓では、私の皿にだけ杏の砂糖煮が添えてあった。
ベルクマン様からは、何の便りもなかった。
私のほうから書くことはできた。下書きなら、ひと月のあいだに七通書いた。けれど赤で直しているうちに、送らない理由のほうが増えていった。
婚約を解かれたばかりの令嬢が、元婚約者の補佐官だった男に手紙を出す。それだけで、あの夜の結論に余計な注釈がつく。
七通は、引き出しの奥にしまった。
申請書が届いたのは、夜会から三十四日目の午後だった。
父に書斎へ呼ばれて、厚手の封筒を差し出された。
「ベルクマン子爵家の三男、テオドール殿からだ。先に私のところへ、これをお前に渡してよいかと問い合わせが来た。私に聞くことではない、と返しておいた」
宛名は黒インクで、見覚えのある字だった。
「宛名はお前だ。返事も、お前が書きなさい」
自室で封を切った。中身は一枚きりで、上の余白に表題が一行あった。
求婚に関する申請書。
声を出して笑いそうになった。求婚に表題をつける人など、この国にほかにはいない。
申請者、法務院書記官テオドール・ベルクマン。
申請の趣旨、被申請者との婚姻を申請する。
申請の理由、申請者は今後も被申請者と同じ卓で、毎晩、文書を検めることを希望する。
その下に付記があった。補佐官の職にある間に、殿下の元婚約者へ本件を申請するのは筋が通らない。また離職後も、申請者欄に記すべき身分が定まるまで日数を要した。提出が遅れたことをお詫びする。
前世で身についた手順のまま、表題から署名まで一字ずつ目を通した。
主語と述語は、きちんと対応していた。読点にも迷いがない。図書室で私が何十回も赤を入れた人の文だったが、今度は赤の入る隙がどこにもなかった。
ただ一か所を除いて。
被申請者、エルナ・ベルクマン。
一字の誤りではなかった。姓が、まるごと違っていた。
指が勝手に、赤インクの小瓶を探していた。正しくはローデンヴァルトだ。疑問を出すまでもない、明白な誤記だった。
ペン先を瓶に浸したところで、手が止まった。
図書室の、ある晩のことを思い出した。私の赤を受けて草稿を直しながら、彼は顔色ひとつ変えずに言ったのだ。
私の文書に誤字があれば、それは意図したものです。
あのときは、その言葉の使い道を深く考えなかった。
意図したもの。
一字も違えずに書く人が、私の名前だけを、わざと違えてきた。
これは誤記ではなかった。この表記でよろしいか、という私への問いだった。前世でも今世でも、私は人の文に疑問を出す側にいた。疑問を出されたのは、これが初めてだった。
赤いペン先で、その名前を丸く囲んだ。
前世の癖なら、余白には「元のまま生かす」という意味の符丁を書くところだ。けれど、あの人はその符丁を知らない。それにこれは申請書だ。申請には、可か否かで答える。
私は余白に、一字だけ書いた。
可。
書いてから、一度だけ読み返した。直すところはなかった。
封筒はハンナに託した。ハンナは宛名を見ただけで、何も聞かなかった。「毎晩、同じお部屋におりましたから」とだけ言って、廊下を急いでいった。
翌々日の午後、ベルクマン様が屋敷に来た。父と書斎で半刻ほど話してから、図書室に通された。ハンナが同席して、扉は少し開けたままにした。あの夜ごとと同じだった。違うのは、窓の外がまだ明るいことだけだ。
彼は卓の向こうで、私が返した申請書を広げた。
「ご返送の文書を確認いたしました。一点、伺いたいことがございます」
「どうぞ」
「この可の一字がどの範囲に係るのか、文面からは判別できません」
本気で聞いているのだと分かった。私は、丸で囲んだ名前を指さした。
「ここから、末尾まで全部です」
彼はしばらく紙を見下ろしていた。それから「承知いたしました」と言った。その声は、ほんのわずかに公文書の調子から外れていた。
今度は、私の番だった。夜会の晩から伏せたままにしていた一文を、ようやく表に返した。
「あなたに、何も失ってほしくなかったのです」
彼は少し考えてから、いつもの声で答えた。
「ご懸念の件は、事実と確認できず、です」
扉の向こうで、ハンナが小さく咳払いをした。
あれから、四年が経った。
この回想は、法務院にほど近い、夫と二人で構えた小さな家の書斎で書いている。卓の向かいでは、夫が持ち帰った書類に黒を入れている。私はときどき横から赤を入れる。あの図書室の夜の続きを、私たちはいまも毎晩している。
『王冠と白薔薇』には、夜会のあとのことは一行も書かれていなかった。だから、ここから先は誰の筋書きでもない。
引き出しには、あの申請書がしまってある。名前を囲んだ赤い丸と、余白の一字。出せなかった七通も一緒だ。
書き終えたら、この原稿も彼に見せるつもりでいる。
きっと余白に、黒インクで短い返事を書いてくるだろう。
もしそこに誤字があれば、今度は直す前に、夫の顔を見てみようと思う。




