床下の秘密
僕は目を覚まし、自分の部屋をゆっくりと見回した。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床板の上に細い白い帯を引いている。枕は少し湿っていて、夜のあいだに寝返りを繰り返したことを教えていた。
今日は、屋敷に客はいない。客が来ていたのは昨日だけだ。ソレンヌ村の一家は昨日のうちに帰っていった。ミラも一緒に。眠る前に台所から持ち帰って引き出しにしまっておいた菓子の残りは、昨夜、寝る前に食べてしまっていた。指先に残った蜜の甘さまで、まだ覚えている気がした。
寝台から降りたあとも、僕はしばらく枕元に立ったままでいた。裸足の裏に、冷えた床板の感触が染みてくる。
おかしなことだと思った。食べ物をしまい込むのは、明日にはなくなるかもしれないと怖がっているからだ。けれど、この家の食べ物がなくなることはない。それは頭では分かっている。それなのに、僕の体はいまも、どんな食べ物もいつ取り上げられてもおかしくないかのように動いてしまう。
屋敷は、いつもどおりの音をたてていた。使用人の足音、皿の触れ合う澄んだ音、書斎で誰かと話している父の低い声。客人の笑い声はなく、慌てて隠れ場所へ走らせるような見知らぬ声もない。階段の途中で、焼きたてのパンの匂いが鼻先をかすめた。
それでも、朝食に降りていくと、母の向かいにある空いた椅子が目に入り、僕の歩みは自然と遅くなった。椅子の背には、誰の手も触れていない冷たい光が落ちている。
昨日、僕の寝台には、家族を待つ女の子が座っていた。いまはもう、誰も訪ねてこない。
僕は自分の椅子を引き、腰を下ろした。木の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「よく眠れた?」
母は湯気の立つ茶器を傾けながら、僕の顔を覗き込んだ。
僕は黙って頷き、膝の上で指を組み直した。
母は菓子のことには触れなかった。帰る前にミラに会いたかったかとも、訊かなかった。僕が気にしていないと思っているのかもしれない。あるいは、僕自身がこの気持ちの名前をまだ知らないことを、分かっているのかもしれない。
「ソレンヌ村の皆さんは、昨日お帰りになったわ。あなたによろしくって。ミラからも」
母の声を聞きながら、僕はパンを必要以上に細かく切り分けた。ナイフの先が皿に当たって、小さく鳴る。
「ミラも?」
母は茶を注ぐ手を止めた。カップが受け皿の上で、静かに揺れる。
「ええ、もちろん。皆さんと一緒に帰ったのよ。あなたの部屋で待たせてもらえて、嬉しかったって。あの子とは、お部屋で会えた?」
僕はフォークをパンに突き立て、視線を皿の上に落としたまま、喉の奥で言葉を探した。
「うん。昨日、部屋で話したよ」
母は答えを急がず、沈黙をそのまま食卓の上に置いておいてくれた。やがて、何事もなかったように食事へ戻る。その横顔を、僕は盗み見るように眺めていた。
朝食のあと、兄が中庭で二本の木剣を持って待っていた。朝露の残る芝が、靴の先を濡らしている。本を読んでいたいと言いかけた。その言葉は舌の先まで来ていた。
けれど、フォークをまだ握りしめたままの自分の手に気づいた。誰かに奪われまいとするように、指の関節が白くなっている。
「稽古する」
そう告げると、兄は片眉を上げ、木剣を握り直した。
「お前から言い出すなんて、珍しいな」
僕は差し出された木剣へ視線を向けたまま、唇の端を引き結んだ。
「兄さんがしゃべってばかりなら、やっぱりやめる」
兄は声を立てて笑い、木剣を僕の手に渡した。柄は朝の空気を吸って、ひやりと冷たかった。
その日の稽古は短かった。腕はすぐに重くなり、足も何度か踏み違えた。兄は僕の腕を引っ張ることも、押しやることもなく、自分の木剣で正しい構えを示し、僕がひとりで真似をするのを待ってくれた。
次の一振りを、僕は受け止めた。
木と木のぶつかる乾いた音が、肩の筋を強張らせる。兄はすぐに木剣を下ろし、僕の顔色を窺った。
「もう終わりにするか」
僕は体の強張りが解けるのを待ち、まだ震えの残る指で柄を握り直した。
「もう一回」
兄は笑みを広げることも、褒めることもしなかった。ただ、黙って木剣を構え直す。
次に木が打ち合わさったとき、僕は足を踏みしめたまま、そこに立っていた。耳の奥で脈が鳴っていたけれど、膝は折れなかった。
稽古のあと、台所へ向かった。皿の上の焼き菓子へ手が伸び、そこで止まる。取ってはいけないと言う人は、どこにもいない。避けなければならない客もいない。隠す理由は、もうなかった。
僕は菓子をひとつ取り、それからもうひとつ取った。ひとつは台所の机で、ゆっくりと味わって食べた。もうひとつは、部屋へ持っていった。
引き出しを開けると、中は空のままだった。木の匂いが、うっすらと立ちのぼってくる。
菓子をそっと入れ、引き出しを閉めた。廊下に誰かいないかを確かめることは、しなかった。
明日もこうして取っておくのかどうか、自分でも分からない。ミラがいつまた訪れるのか、本当に来てくれるのかも分からない。それでも、そのことを考えながら、生まれて初めて、隠れて答えを出そうとはしなかった。
夕方、僕は小さな弓を持って、また中庭へ出た。傾いた日差しが、的の板を橙色に染めている。一本目の矢は的を大きく外れ、草の中へ消えた。二本目は板に突き立ったが、中心からはずっと遠かった。
僕は三本目の矢を手に取った。
背後の屋敷は、何も変わらない。窓の奥には、家族がいる。ミラは、いない。
それでも、彼女が去ったあとも、一日は静かに続いていった。




